心 あて に 折ら ば や 折 らむ 初 霜 の 置 きま ど は せる 白菊 の 花。 五色百人一首一覧:青札・赤札(ピンク札)・黄札・緑札・オレンジ札の色別

正岡子規 歌よみに与ふる書

心 あて に 折ら ば や 折 らむ 初 霜 の 置 きま ど は せる 白菊 の 花

父祖等は不詳。 凡河内(大河内)氏は河内地方の国造。 寛平六年 894 二月、甲斐少目(または権少目)。 その後、御厨子所に仕える。 延喜七年 907 正月、丹波権大目。 延喜十一年正月、和泉権掾。 延喜二十一年正月、淡路掾(または権掾)。 延長三年 925 、任国の和泉より帰京し、まもなく没したと推定される。 歌人としては、昌泰元年 898 秋の亭子院女郎花合に出詠したのを始め、主催の歌合に多く詠進するなど活躍し、古今集の撰者にも任ぜられた。 延喜七年九月、大井川行幸に参加。 延喜十三年三月、亭子院歌合に参加。 以後も多くの歌合に出詠し、また屏風歌などを請われて詠んでいる。 古今集には(九十九首)に次ぐ六十首を入集し、後世、貫之と併称された。 貫之とは深い友情で結ばれていたことが知られる。 の一人。 家集『躬恒集』がある。 勅撰入集二百十四首。 18首 5首 10首 1首 12首 10首 計56首 春 雁 かり の声を聞きて、 越 こし にまかりける人を思ひてよめる 春来れば雁かへるなり白雲の道ゆきぶりにことやつてまし (古今30) 【通釈】春が来たので、雁が帰って行くようだ。 白雲の中の道を行くついでに、越の国の友に言伝 ことづて をしたいものだが。 は聴覚によって推量判断する心をあらわす。 万葉集にも見える語。 「道ゆき」は旅行、「ぶり」は「触 ふ り」で、「ついでに」「折に」程の意か。 【補記】雁の鳴き声を聞いて、越(北陸地方)に赴いた人(おそらく国司として赴任した友人であろう)を思って詠んだという歌。 雁は春になると北へ帰るので、その鳴き声から北国にいる人を思い遣るのは自然な心の動きであるが、雁はまた書を届ける使者に擬えられたので、旅のついでに伝言をつたえてほしいと願ったのである。 「白雲の道ゆきぶり」は、雲の中の雁の通りみちを「道」に喩えての謂で、その旅路の遥かさ、友のいる土地の遠さを思わせて、一首のかなめとなっている。 【他出】躬恒集、古来風躰抄、僻案抄 【主な派生歌】 花の色もうつりにけりとしら雲の道行ぶりにかをる山風 わけくらす峰のつづきもしら雲の道行ぶりに宿や借らまし うき世にもことやつぐると初雁の道行ぶりに山べをやとふ 松永貞徳 月夜に梅の花を折りてと人のいひければ、折るとてよめる 月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞ知るべかりける (古今40) 【通釈】月の輝く夜には、月明かりが明るすぎて、はっきり見分けることも出来ません。 梅の花は、香を探し訪ねてこそ、ありかを知ることができるものです。 【補記】月夜に「梅の花を一枝折って、送って下さい」と言ってきた相手に返事として贈った歌。 我が家を訪ねて来て欲しいとの思いを籠めている。 【他出】躬恒集、古今和歌六帖、定家八代抄、和漢兼作集 【参考歌】「万葉集」巻八 我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば 「古今集」 梅の花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれれば 【主な派生歌】 にほひても分かばぞ分かむ梅の花それとも見えず春の夜の月 [千載] なかなかに四方に匂へる梅の花たづねぞ侘ぶる夜はの木のもと 梅が香もあまぎる月にまがへつつそれとも見えず霞む頃かな [新勅撰] 春の夜、梅の花をよめる 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる (古今41) 【通釈】春の夜の闇は美しい彩 あや がなく、筋の通った考えがない。 梅の花は、その色は確かに見えないけれども、香は隠れたりするものか。 見せまいといくら隠したところで、ありかは知られてしまうのだ。 「あや」には「彩」の意が掛かる。 【補記】春の夜の闇にかこつけ、梅の花の香り高さを婉曲に賞賛している。 【他出】躬恒集、新撰和歌、古今和歌六帖、金玉集、和漢朗詠集、俊頼髄脳、定家八代抄、僻案抄、和歌色葉、歌林良材 【主な派生歌】 梅が香におどろかれつつ春の夜の闇こそ人はあくがらしけれ [千載] 白雲のたえまにかすむ山桜色こそみえねにほふ春風 [新後拾遺] 朝霞梅のたち枝は見えねどもそなたの風に香やはかくるる [続拾遺] 色見えで春にうつろふ心かな闇はあやなき梅のにほひに 蘆の屋の蔦はふ軒のむら時雨音こそたてね色はかくれず 〃 夏の夜も闇はあやなし橘をながめぬ空に風かをるなり 梅が香は霞の袖につつめども香やはかくるる野べの夕風 かすめども香やはかくるるこもりえの初瀬の里の春の梅が枝 [新千載] 梅の花いろこそ見えね風吹けば月の光のにほふなりけり 風や知るいづくにさける梅ならんただ香ばかりの春の夜の闇 これもまた色こそ見えね春の夜の月はあやなし匂ふ梅が枝 色もいろ匂ひも月の光にて闇こそ梅は人に知らるれ 〃 題しらず 咲かざらむものとはなしに桜花おもかげにのみまだき見ゆらむ (拾遺1036) 【通釈】いつかは咲かないわけはないのに、桜の花があまり待ち遠しくて、面影にばかり、咲かないうちから見えるのだろう。 【補記】「まだき」は副詞としての用法で、「まだその時には至らないのに」程の意。 延喜十三年 913 の亭子院歌合。 拾遺集では雑春の巻に載る。 桜の花の咲けりけるを見にまうで来たりける人に、よみておくりける わが宿の花見がてらに来る人は散りなむのちぞ恋しかるべき (古今67) 【通釈】我が家の花を見るついでに私を訪ねる人は、散ってしまった後はもう来ないでしょうから、さぞかし恋しく思うでしょうねえ。 【補記】桜を目当てに訪ねる人へ皮肉をこめて言うが、その裏には風流を愛でる心に対する共感がある。 それゆえの「恋しかるべき」なのである。 【他出】古今和歌六帖、金玉集、深窓秘抄、和漢朗詠集、前十五番歌合、三十人撰、三十六人撰、躬恒集、和歌体十首 【主な派生歌】 奥山の花見がてらにとひし庵ちりなむ後としめてましかば 咲きぬともよそに知られぬ山里は花見がてらに来る人もなし なれなれし花の木陰の草莚ちりなむ後ぞしきしのぶべき 松永貞徳 延喜十五年二月十日、仰せ言によりて奉れる、和泉の大将四十の賀の屏風四帖、内よりはじめて、 尚侍 ないしのかみ の殿にたまふ歌 山たかみ雲居にみゆる桜花こころのゆきてをらぬ日ぞなき (躬恒集) 【通釈】山が高いので空に咲いているかのように見える桜の花よ。 心だけはそこまで行って手折らぬ日とてないのだぞ。 【補記】右大将藤原定国の四十歳を祝賀する四季の屏風絵に書き添えた歌。 古今集巻七賀歌に素性法師の作として扱う。 『古今和歌六帖』も素性の作とするが、『素性集』にはなく、『躬恒集』にあることから、躬恒の作であることが確実視されている。 金玉集・三十六人撰・深窓秘抄・定家八代抄なども躬恒作とする。 【他出】躬恒集、新撰和歌、古今和歌六帖、如意宝集、金玉集、和歌体十種(両方致思体)、和歌十体(両方体)、三十人撰、三十六人撰、深窓秘抄、奥義抄、定家八代抄 【主な派生歌】 道とほみ行きては見ねど桜花心をやりて今日はかへりぬ [後拾遺] 人しれぬ心のゆきて見る花はのこる山べもあらじとぞ思ふ 春 我が心春の山べにあくがれてながながし日を今日も暮らしつ (亭子院歌合) 【通釈】私の心は桜の咲く春の山に誘われ、さまよい出てしまったまま、長い長い一日を今日も暮らしてしまった。 【補記】新古今集に紀貫之の歌として載るが、亭子院歌合では躬恒の作とし、貫之の「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」と合わせて負けている。 躬恒集にも躬恒作として載る。 題しらず いもやすく寝られざりけり春の夜は花の散るのみ夢に見えつつ (新古106) 【通釈】ぐっすりとは寝られないものだなあ。 春の夜は、花が散るのばかり繰り返し夢に見て。 【他出】亭子院歌合(作者名不明記)、定家八代抄、八雲御抄、和漢兼作集、歌林良材 さくらのちるをよめる 雪とのみ降るだにあるを桜花いかに散れとか風の吹くらむ (古今86) 【通釈】ただもう雪が降るように散っているのに、このうえ桜の花がどういうふうに散れということで風が吹くのだろうか。 【主な派生歌】 河波のくくるも見えぬくれなゐをいかにちれとか峰の木がらし 雪とのみふるからをのの桜花なほこのもとは忘れざりけり いかにせむ高根の桜雪とのみふるだにあるを春の曙 桜花うつろふ色は雪とのみふるの山風ふかずもあらなむ 尊円[風雅] 雪とのみさそふもおなじ河風に氷りてとまれ花の白波 [新続古今] うつろへる花をみてよめる 花見れば心さへにぞうつりける色には出でじ人もこそ知れ (古今104) 【通釈】散りゆく花を見ていると、心までもが移り気になってしまうよ。 しかし顔色には出すまい。 恋人に気づかれたら大変だ。 【補記】この「人」は多くの注釈書が「世間の人々」「周囲の人々」と解する。 鶯の花の木にてなくをよめる しるしなき 音 ね をも鳴くかな鶯の今年のみ散る花ならなくに (古今110) 【通釈】何の効果もないのに鶯が声あげて啼くことだ。 今年だけ散る花でもないのに。 【補記】鶯が花の散るのを惜しみ、引き留めようとして鳴いて(泣いて)いると見た。 『古今和歌六帖』の鶯の部にも躬恒の作として入り、第三句「鶯は」とある。 【主な派生歌】 鶯はいたくなわびそ梅の花ことしのみちるならひならねば 題しらず なくとても花やはとまるはかなくも暮れゆく春のうぐひすの声 (続後撰149) 【通釈】啼いたとて、花は散るのを止めてくれるだろうか。 【補記】『躬恒集』によれば屏風歌。 題しらず おきふして惜しむかひなくうつつにも夢にも花の散る夜なりけり (金葉初度本98) 【通釈】起きても寝ても惜しむ甲斐は一向になく、夢の中でさえ花が散る夜であったよ。 【補記】『古今和歌六帖』『躬恒集』では結句「ちるをいかにせむ」。 【主な派生歌】 山ざくら尋ねてかへる春の夜は夢にも花のすがたをぞ見る 春こゆるうつの山道うつつにも夢にも花のちるやみゆらむ 中院通勝 うつつにも夢にも花のちる比は山にだに世のうきめをぞみる 花のちるをみてよめる 桜花ちりぬるときは見もはてでさめぬる夢の心地こそすれ (金葉初度本105) 【通釈】桜の花が散ってしまった時は、見終わらないうちに覚めてしまった夢のような気持がすることだ。 【補記】『躬恒集』によれば屏風歌。 但し第二句「ちりなむのちは」。 家に藤の花さけりけるを、人のたちとまりて見けるをよめる わが宿に咲ける藤波たちかへり過ぎがてにのみ人の見るらむ (古今120) 【通釈】私の屋敷に咲いた藤の花を、引き返して引き返ししては、通り過ぎにくそうに人が見ているようだ。 【補記】「たちかへり」は「波」の縁語。 やよひのつごもりの日、花つみよりかへりける女どもを見てよめる とどむべき物とはなしにはかなくも散る花ごとにたぐふ心か (古今132) 【通釈】止められるものではないのに、はなかく散る花びらの一ひら一ひらに寄り添うように愛惜する我が心であるよ。 【補記】陰暦三月晦日、すなわち春の終りの日、花摘みから帰って来る女たちを見て詠んだ歌。 「たぐふ」は「添う」「一緒になる」意で、ここでは女たちの一人一人に惹かれる思いを寓意している。 やよひのつごもり 暮れてまた明日とだになき春の日を花の影にてけふは暮らさむ (後撰145) 【通釈】日が暮れてしまったら、もう春の日は明日さえないのだ。 だから今日は思う存分、桜の花の陰で暮らそう。 【主な派生歌】 昨日をば花の陰にてくらしてきけふこそいにし春はをしけれ [続千載] み吉野の花のかげにてくれはてておぼろ月よの道やまどはむ ちらぬまの花のかげにてくらすひは老の心も物思ひもなし [続古今] 亭子院の歌合のはるのはてのうた けふのみと春を思はぬ時だにも立つことやすき花のかげかは (古今134) 【通釈】今日で春は終りと思わない時でさえ、この美しい花のかげから、たやすく立ち去るなどできようか。 【補記】結句は反語。 「ましてや今日は春の最後の日なのだから、立ち去ることなど到底できない」ということ。 古今集春歌の掉尾を飾る。 【他出】三十人撰、三十六人撰、深窓秘抄、和漢朗詠集、定家八代抄 【主な派生歌】 花ならぬならの木かげも夏くればたつことやすき夕まぐれかは ちりはてて花のかげなきこのもとにたつことやすき夏衣かな [新古] 夏衣たつことやすきかげもなしなほ花思ふ庭の梢に 花の陰の心をしらば月も日もたつことやすき春はあらじを 後柏原院 夏 題しらず 手もふれで惜しむかひなく藤の花そこにうつれば波ぞ折りける (拾遺87) 【通釈】手も触れずに散るのを惜しんだ甲斐もなく、藤の花は水に映ると、波が折ってしまった。 【補記】水に映った藤の花が波にかき乱される様を、波に折られたと見た。 「うつれば」を「移れば」の意とすれば、水に落ちた花片を波がさらってしまった、とも解される。 なお、物が水に反映して見える像を、当時は水面でなく水底に映っているものと考えたらしい。 貞文 さだふん が家の歌合に 郭公をちかへりなけうなゐ子がうちたれ髪のさみだれの空 (拾遺116) 【通釈】ほととぎすよ、繰り返し鳴け。 幼な子の髫 うない の垂れ髪が乱れているように降る五月雨の空に。 カッコウ科カッコウ目。 インド・中国南部から初夏に渡来する夏鳥。 昼夜、晴雨を問わず鳴く。 和歌では殊に、雨の夜、空を飛びながら鳴くさまに関心を寄せた。 繰り返し。 「若返って」の意もあり、次句の「うなゐ子」のイメージと微妙に響き合う。 十二、三歳くらいまでを言う。 【補記】動きの活発な子の垂れ髪は乱れやすく、それで「うなゐ子がうちたれ髪の」を「さみだれ」の序に用いたのだろう。 もっとも「さみだれ」の語源は「乱れ」とは関係なく、「さ水 み 垂れ」であり、古人がこの語源意識を有していたとしたら、「 垂れ髪」から「さみ だれ」を導いたのだとも考えられる。 邸で催された歌合に出された作。 郭公のなきけるをききてよめる ほととぎす我とはなしに卯の花のうき世の中になきわたるらむ (古今164) 【通釈】ほととぎすは、私ではないのに、私と同じ様に、憂き世にあって啼き続けるのだろうか。 【補記】「卯の花の」は「うき世の中」の「う」を導く枕詞。 ウの音を同じくすると共に、時鳥の鳴く季節が卯の花の咲く季節と合致するゆえにこの語を用いている。 ゆえに時鳥が卯の花が咲く辺りを鳴いて過ぎると解釈することも可能である。 隣より、とこなつの花を乞ひにおこせたりければ、をしみてこの歌をよみてつかはしける 塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹とわがぬるとこ夏の花 (古今167) 【通釈】寝床と同じ様に、塵ひとつ置かないように思っているのですよ、咲いてからずっと。 それほど大切にしている花なのですから、どうぞお宅でも大事にして下さい。 【補記】「とこ夏の花」は撫子の別称。 みな月のつごもりの日よめる 夏と秋と行きかふ空のかよひ路はかたへすずしき風や吹くらむ (古今168) 【通釈】去りゆく夏と訪れる秋が行き違う空の通り路では、片方にだけ涼しい風が吹いているのだろうか。 【補記】古今集夏歌の巻末。 「せこ」は女から夫や恋人を呼ぶ称。 前句からのつながりで衣の「裏」を言い出し、「心 うら めづらしき」と続けた。 「うら」は「うら悲し」などと言う時の「うら」と同じく、心の内側で感じていることを表わす。 【補記】「吹き返し」までは「うら」を導く序であるが、嘱目を叙している形をとり、いわゆる「有心の序」となっている。 またこの序によって「秋の初風」を感じているのが女性であると知られ、「衣のすそ」という細部への目配りがおのずと夫に対する気持の細やかさを伝えて、一首の情趣をしっとりとしたものにしている。 古今集はで載せるが、『躬恒集』にあり、また『古今和歌六帖』も躬恒の作とする(但し初句は「わぎも子が」)。 【他出】家持集、躬恒集、新撰和歌、古今和歌六帖、綺語抄、能因歌枕、定家八代抄、秀歌大躰、歌林良材 (初句を「わぎもこが」として載せる本もある。 ) 【主な派生歌】 唐衣立田の山の郭公うらめづらしきけさの初声 [続千載] 雪消えてうらめづらしき初草のはつかに野べも春めきにけり [新勅撰] 山風の霞の衣吹きかへしうらめづらしき花の色かな [新拾遺] 山路より磯辺の里に今日はきて浦めづらしき旅衣かな 彦星の妻待つ秋の初風にうらめづらしき天の羽衣 梅が香に今日は難波のあま衣うらめづらしき春風ぞ吹く 松風も秋にすずしく音かへてうらめづらしき志賀の唐崎 秋きぬと海吹く比良の山風もうらめづらしきあまの衣手 七日 なぬか の日の夜よめる たなばたにかしつる糸のうちはへて年の緒ながく恋ひやわたらむ (古今180) 【通釈】七月七日には機織 はたおり の上達を願って織女星に糸をお供えするけれども、その糸のように長く延ばして、何年も何年も私はあの人を恋し続けるのだろうか。 【補記】「つらね」は列をなして飛ぶ雁の習性から「雁がね」の縁語となる。 昔あひしりて侍りける人の、秋の野にあひて、ものがたりしけるついでによめる 秋萩のふるえにさける花見れば本の心は忘れざりけり (古今219) 【通釈】秋萩の去年の古い枝に咲いた花を見ると、花ももとの心を忘れなかったのだなあ。 【補記】旧友と偶然出遭い、友情の変わりない喜びを季節の風物に事寄せて詠んだ。 【主な派生歌】 秋くれば萩もふるえにさくものを人こそかはれもとの心は 藤原惟方[風雅] さこそわれ萩のふるえの秋ならめもとの心を人のとへかし [風雅] いまはよにもとの心の友もなし老いてふるえの秋萩の花 いはれのの古枝の真萩はなさけば池にももとの心をぞしる なれきつるもとの心は忘れずと萩の古枝をてらす月かげ 内侍のかみの右大将藤原朝臣の四十賀しける時に、四季の絵かけるうしろの屏風にかきたりける歌 秋 住の江の松を秋風吹くからに声うちそふる沖つ白波 (古今360) 【通釈】住の江の松を秋風が吹くやいなや、声をうち添える、沖の白波よ。 「そふる」に、さらに年齢を重ねてゆくことを含意する。 【補記】藤原定国の四十歳の祝賀における屏風に添えた歌。 古今集の排列からすると素性法師の作になるが、『躬恒集』や拾遺集に躬恒の作として載る。 『躬恒集』の詞書は「延喜十五年二月十日、仰せ言によりて奉れる、和泉の大将四十の賀の屏風四帖、内よりはじめて、尚侍の殿にたまふ歌」。 【他出】寛平御時中宮歌合、躬恒集、古今和歌六帖、拾遺集(重出)、麗花集、袋草紙、五代集歌枕、和歌色葉、古来風体抄、俊成三十六人歌合、定家十体(麗様)、定家八代抄、西行談抄、時代不同歌合、十訓抄、古今著聞集、歌枕名寄、三五記、愚見抄、悦目抄 (初句を「すみよしの」として載せる本も少なくない) 【鑑賞】「此の如きさはやかなる 調 しらべ は貫之にもなし。 誠に古今の一人なり。 (中略) 扨 さて 此歌は、住吉のすべての景色をいはずして、中にも勝れて感ある所を取りたるなり。 そは松風のさはやかなるに、浪の音のさらさら打合ふ処なり。 又経信朝臣の『沖つ風ふきにけらしな住の江の松のしづ枝を洗ふ白浪』、是は景色を十分 云負 いひおほ せたるなり。 されどさはやかならずして、感 少 すくな し。 歌は 理 こと わるものに 非 あら ず、調ぶるもの也といふは此事なり」(香川景樹『桂の下枝』)。 【主な派生歌】 秋風の関吹きこゆるたびごとに声うちそふる須磨のうら波 [新古] もしほ草しきつの浪にうき枕きけすみよしの松を秋風 住吉の松のしづえは神さびてゆふしでかくる沖つ白波 藤原光頼[続後撰] 住吉の浜辺のみそぎくれゆけば松を秋風けふよりぞふく 清涼殿の南のつまに、みかは水ながれいでたり、その前栽に松浦沙あり、延喜九年九月十三日に賀せしめたまふ、題に月にのりてささら水をもてあそぶ、詩歌こころにまかす ももしきの大宮ながら 八十島 やそしま を見るここちする秋の夜の月 (躬恒集) 【通釈】大宮にいながらにして、たくさんの島を見渡せるような心地がする、秋の夜の月よ。 内裏内の側溝を流れる水。 歌枕松浦潟(佐賀県唐津市の虹の松原辺り)をかたどった洲浜か、松浦産の砂か。 醍醐天皇代。 九月十三日は「のちの月」として賞美された。 文選の謝霊運の詩に由る。 【補記】洲浜には砂で多くの島が造り成されていたのだろう。 この歌は拾遺集「雑秋」の部に読人しらずとして入集しているが、『躬恒集』に見え、『古今和歌六帖』も躬恒作とする。 【補記】『躬恒集』によれば屏風歌。 但し上句は「秋の野の道をわけ行くうつりがは」。 『古今和歌六帖』も躬恒作として載せるが、初二句が異なり、「秋ののにわけゆくからに」とある。 白菊の花をよめる 心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花 (古今277) 【通釈】当て推量に、折れるものならば折ってみようか。 草葉に置いた初霜が見分け難くしている白菊の花を。 根拠もなく推し量って。 「よく注意して」の意とする説もある。 「ばや」は接続助詞「ば」と疑問の助詞「や」。 霜は空気中の水蒸気が地表などに触れて昇華し、氷片となったもの。 古人は露が凍って出来ると考えたらしい。 「初霜」はその年最初の霜で、だからこそ人を「まどはせる」ものたり得る。 当時は今見るような大輪のものはなく、小菊であったろうと言う。 【補記】晩秋の明け方、まだ薄暗い庭にあって、草葉に置いた初霜と菊が共に真っ白で、見まがう程である、と誇張した。 菊の花の凛然たる白さを印象づけるための趣向であるが、「霜の花」という言葉があるほど、草葉を覆う霜は実際美しいものである。 梅と雪、月光と雪など、古今集時代に好まれた、言わば「紛らわしい見立て」の発想は、漢詩の影響下にあることが指摘されている。 【補記】散った葉は水面に落ち、まだ散らない葉は水底に映って見える、という凝った趣向。 なお、当時は水面ばかりでなく水底にまで物が映って見えると考えられたらしい。 長月のつごもりの日よめる 道しらばたづねもゆかむもみぢ葉を 幣 ぬさ とたむけて秋は 去 い にけり (古今313) 【通釈】どの道を通るのか知っていたら、追ってもゆこうものを。 散り乱れる紅葉を幣として手向けながら、秋は去ってしまうよ。 【補記】「幣」とは神への捧げ物で、旅に出る時、紙または絹を細かく切ったものを袋に入れて持参し、道祖神の前でまき散らした。 【参考歌】「古今集」 このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに 【主な派生歌】 もみぢばを幣とたむけてちらしつつ秋とともにやゆかむとすらむ 大輔[後撰] もみぢばを幣にたむけて行く秋ををしみとめぬや神なびの森 みそぎ川あさのたちえのゆふしでを幣とたむけて夏はいぬめり 冬 雪のふれるをみてよめる 雪ふりて人もかよはぬ道なれやあとはかもなく思ひ消ゆらむ (古今329) 【通釈】雪が降り積もって、道は人も通わなくなったのだなあ。 誰一人訪ねて来ず、このままでは寂しさに跡形もなく私の心は消えてしまうことだろう。 【補記】人の訪れが絶えた冬の山里を詠む歌群にある。 「思ひ」の「ひ」に「火」を掛け、「きゆ」と縁語になる。 また「きゆ」は雪とも縁のある語。 恋 題しらず 初雁のはつかに声を聞きしよりなかぞらにのみ物を思ふかな (古今481) 【通釈】初雁の声を耳にするように、あの人の声をほのかに聞いてからというもの、うわの空で物思いをしてばかりいるよ。 【補記】「初雁の」は同音の「はつか」を導くとともに、遠くからわずかに聞えた恋人の声の比喩ともなっている。 【補記】山鳥は雉によく似た鳥。 雌雄は峰を隔てて寝ると信じられ、「遠山鳥」の鳴き声とは雄が遠くにいる雌を恋い慕って鳴く声である。 題しらず 秋霧のはるる時なき心には立ちゐの空も思ほえなくに (古今580) 【通釈】秋霧のように鬱々とした思いが常に立ち込め、晴れることのない私の心は、立ったり座ったりするのも気づかないほど上の空であるよ。 【補記】「空」は「心空なり」などと言う時の「空」にひっかけ、霧の縁語として用いている。 「立ち」も霧の縁語。 【補記】「そよ」は相手に対して同意・共感などを示す語。 「人」は人一般でなく、恋の対象である特定の人である。 題しらず 夏虫をなにか言ひけむ心から我も思ひにもえぬべらなり (古今600) 【通釈】夏の虫のことを何でまたあげつらったのだろう。 私もまた、自分の心から恋の思いに燃えてしまうだろうに。 【補記】「夏虫」は蛾など、火中に飛び入って燃える虫。 「思ひ」の「ひ」に「火」を掛けている。 題しらず 君をのみ思ひ寝にねし夢なれば我が心から見つるなりけり (古今608) 【通釈】あなたのことばかり思いながら寝入って見た夢だから、私の心が原因で見た夢だったのだなあ。 【補記】「相手が自分を思うから夢に見える」「自分が相手を思うから夢に見る」両様の考え方があったが、「思ひ寝」に見た夢だから後者だろうと言うのである。 【主な派生歌】 思ひ寝に我が心からみる夢も逢ふ夜は人のなさけなりけり [新続古今] いとどまた夢てふ物をたのめとや思ひねになくほととぎすかな うつつにも夢にも人に夜し逢へば暮れゆくばかり嬉しきはなし (亭子院歌合) 【通釈】現実でも夢でも恋人とは夜に逢うので、日が暮れて行くことほど嬉しいことはない。 【補記】この歌は拾遺集に読人不知とするが、延喜十三年亭子院歌合では躬恒の作としている。 題しらず わが恋はゆくへも知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ (古今611) 【通釈】この恋は、行方もわからず、果ても知らない。 いったいどこに辿り着くというのだろう。 ただこれだけは言える、今はただ、あの人と逢うことが終着点と思うばかりなのだ。 【他出】躬恒集、古今和歌六帖、三十人撰、金玉集、和漢朗詠集、三十六人撰、深窓秘抄、古来風躰抄、定家八代抄 【主な派生歌】 惜しめどもたちもとまらぬ秋霧のゆくへもしらぬ恋もするかな 恋しさは逢ふを限りと聞きしかどさてしもいとど思ひそひけり [千載] 我が恋は今をかぎりと夕まぐれ荻ふく風の音づれて行く [新古] 心こそ行方も知らね三輪の山杉の梢の夕暮の空 [新古]) 芳野山あふをかぎりの桜花ゆくへもしらぬ道やまどはむ あひみてもなほ行方なき思ひかな命や恋のかぎりなるらむ いつしかの行へもしらぬ詠めより逢ふを限りのはてをしぞ思ふ 我が恋は逢ふをかぎりのたのみだに行方もしらぬ空のうき雲([新古]) 行へなきあふをかぎりの白雲もたえて分かるる峰の松かぜ さても又あふを限りのはてもなし恋は命ぞかぎりなりける おのづからあふをかぎりの命とて年月ふるも涙なりけり 〃[続古今] 徒に立つや煙のはてもなし逢ふを限りともゆる思ひは(源親長[続拾遺]) 我が涙逢ふを限りと思ひしに猶いひしらぬ袖の上かな([続拾遺] 思ひあまりあふをかぎりの詠めしてゆくへもしらぬ夕暮の空 こむ世には契ありやと恋ひしなむあふをかぎりの命をしまで [新後撰] わたの原ゆくへもしらずはてもなし沖つ霞の春のあけぼの 恋ひしなむそれまでと猶歎くかなあふを限の思ひたえても しら雲の八重山遠く匂ふなり逢ふをかぎりの花の春風 題しらず 長しとも思ひぞはてぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば (古今636) 【通釈】必ずしも長いとは思い決めないよ。 昔から、逢う人によって決まる秋の夜の長さなのだから。 【補記】「思ひぞはてぬ」は「思ひはてず」を強めた言い方。 「ぞ」の係り結びにより否定の助動詞「ず」が連体形「ぬ」となっている。 【主な派生歌】 くれはつる秋こそやがてしらせけれあふ人からの夜半のならひは むつごとも逢ふ人からのならひかもいづらは夜半も長月の空 ながしとぞ思ひはてぬる逢はでのみひとり月見る秋の夜な夜な またいつにこよひもまたむ月をしも逢ふ人からのしののめの空 三条西実隆 題しらず わがごとく我を思はむ人もがなさてもや憂きと世をこころみむ (古今750) 【通釈】私が相手を思うように私を思ってくれる人がいてほしい。 それでも人と人の仲は厭わしいものかと試してみたい。 【主な派生歌】 よの中はさてもやうきと桜花ちらぬ春にもあひ見てしがな おなじ所に宮仕へし侍りて常に見ならしける女につかはしける 伊勢の海に塩焼く海人の藤衣なるとはすれど逢はぬ君かな (後撰744) 【通釈】伊勢の海で塩を焼く海人の粗末な衣がくたくたに褻 な れているように、見慣れてはいるけれど逢瀬は遂げていないあなたですよ。 【補記】「藤衣」までは「なる」を起こす序。 「なる」は衣服については着古して布地がくたくたになった状態を言う。 【主な派生歌】 須磨の海人の袖に吹きこす潮風のなるとはすれど手にもたまらず [新古今] 露分くる夏野の草のぬれ衣なるとはすれど色もかはらず あま衣なるとはすれどいせ島やあはぬうつせはいふかひもなし 恋歌の中に 五月雨のたそかれ時の月かげのおぼろけにやはわれ人を待つ (玉葉1397) 【通釈】梅雨の頃の黄昏時の月の光がよくぼんやりしているように、ぼんやりと好い加減な気持で私があなたを待っているとでもお思いですか。 【参考歌】「拾遺集」 逢ふことはかたわれ月の雲隠れおぼろけにやは人の恋しき 【主な派生歌】 あふことをはつかに見えし月影のおぼろけにやはあはれともおもふ [新古] 雑 越の国へまかりける人によみてつかはしける よそにのみ恋ひやわたらむしら山の雪見るべくもあらぬわが身は (古今383) 【通釈】遠くからずっと恋い慕ってばかりいるのでしょうか。 白山の雪を見に行くすべもない私は。 【補記】離別歌。 「越 こし の国」は今言う北陸地方に当る。 「しら山」は加賀白山()。 「雪見る」に「行き見る」(あなたに逢いに行く)を掛ける。 【補記】羈旅歌。 「あまたたび寝ぬ」は、寒さに何度も目覚めてはまた寝たということであろう。 幾晩も寝たという意味にもとれるが、それでは「初霜」という語に合わなくなる。 「たび寝」に「旅寝」の意が掛かる。 【主な派生歌】 さすらふる我が身にしあれば象潟やあまの苫屋にあまたたび寝ぬ [新古] 母がおもひにてよめる 神な月しぐれにぬるるもみぢ葉はただわび人のたもとなりけり (古今840) 【通釈】神無月の時雨に濡れる紅葉の色は、嘆き悲しむ私の 血の涙に染まった袖の色そのままです。 【補記】哀傷歌。 母の喪に服しての作。 『躬恒集』には見えず、『忠岑集』に載る。 【参考歌】「万葉集」巻八 神な月時雨にあへるもみち葉の吹かば散りなむ風のまにまに よみ人しらず「後撰集」 唐衣たつたの山のもみぢばは物思ふ人のたもとなりけり 【主な派生歌】 わび人のたもとしなくは紅葉葉のひとりや雨にぬれて染めまし 題しらず 見る人にいかにせよとか月影のまだ宵のまに高くなりゆく (玉葉2158) 【通釈】見る人にどうしろというのだろうか、まだ日暮れて間もないうちから、月がどんどん高くなってゆく。 【補記】月夜をじっくり賞美したいと思う人の心を裏切るように、夜空を昇ってゆく月。 『躬恒集』は第一句「みるほどに」。 【参考歌】よみ人しらず「古今集」 おもふよりいかにせよとか秋風になびくあさぢの色ことになる 延喜御時、御厨子所にさぶらひけるころ、沈めるよしを歎きて、御覧ぜさせよとおぼしくて、ある蔵人に贈りて侍りける十二首がうち いづことも春の光はわかなくにまだみ吉野の山は雪ふる (後撰19) 【通釈】どこでも春の光は分け隔てなく射すはずですのに、この吉野山ではまだ雪が降っております。 【補記】詞書の「延喜御時」は醍醐天皇代。 「御厨子所 みづしどころ 」は天皇の御膳を供進したり節会での酒肴を調える所。 そこに伺候していた頃、不遇の我が身を歎き、ある蔵人に陳情した歌。 天皇の慈悲を春の光に、自らの境遇を雪降る吉野山に喩えている。 後撰集は春歌とするが、内容からして述懐歌とするのが妥当。 山のほうしのもとへつかはしける 世をすてて山にいる人山にても猶うき時はいづちゆくらむ (古今956) 【通釈】俗世を捨てて山に入る人は、山にあっても生き辛いと思う時には、どこへ行くのだろう。 この「らむ」は推量の助動詞。 疑問詞「いづち」を受けて場所を推量する用法。 物思ひける時、いときなき子を見てよめる 今更になにおひいづらむ竹の子のうきふししげき世とは知らずや (古今957) 【通釈】不憫な我が子よ、今更どうして成長してゆくのか。 竹の子の節ではないが、辛い折節の多い世とは知らないのか。 【補記】表面的には「竹の子は今更どうして生え出てきたのか」云々と言い、そこに幼い我が子への感慨を込めている。 「ふし」「よ」は竹の縁語(「よ」は節と節の間の意)。 「ふししげき」は竹については節が多い意になる。 友だちの久しうまうでこざりけるもとに、よみてつかはしける 水のおもにおふる五月の浮き草の憂きことあれやねをたえてこぬ (古今976) 【通釈】水面に生えている五月の浮草ではないが、憂きことがあるのだろうか、まるで浮草の根が切れたようにぷっつりとあなたの音信も絶えた。 【補記】「浮き草の」までが「うき」を起こす序。 「ねをたえて」の「ね」には「音 ね 」すなわち音信の意を掛ける。 【参考歌】小治田広耳「万葉集」巻八 ほととぎす鳴く峰の上の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ 淡路のまつりごと人の任果てて上りまうで来ての頃、の粟田の家にて ひきてうゑし人はむべこそ老いにけれ松のこだかくなりにけるかな (後撰1107) 【通釈】小松を引き抜いて植えた人が年老いたのも無理はありません。 その松がこれほど高くなるまで育ったのですから。 【補記】「淡路のまつりごと人」は淡路掾。 躬恒は延喜二十一年 921 正月、淡路掾に任官している。 その任期が終わって上京した頃、藤原兼輔の粟田(京都市左京区)の別荘で詠んだ歌。 「ひきてうゑし人」は作者自身を指すと思われる。 【参考歌】「万葉集」巻三 妹として二人作りし我が山斎 しま は木高く繁くなりにけるかも 法皇西河におはしましたりける日、猿山の峡に叫ぶといふことを題にてよませ給うける わびしらに 猿 ましら ななきそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ (古今1067) 【通釈】物悲しげに哭くな、猿よ。 おまえの棲む山に峡 かい があるように、甲斐のある今日ではないか。 【補記】宇多法皇の大堰川行幸の際、「猿、山の峡に叫ぶ」の題で詠むよう命ぜられて作った歌。 「あしひきの山の」は「かひ」を起こす序。 「かひある」は「張合いがある」程の意。 「今日」は法皇行幸の今日。 【主な派生歌】 岩にむす苔ふみならす三熊野の山のかひある行末もがな [新古] 今朝ぞこの山のかひあるみむろ山絶えせぬ道の跡を尋ねて 亀のをの山のかひある山桜万代ふべきためしとぞみる 西園寺公相[続拾遺] 公開日:平成12年04月08日 最終更新日:平成20年09月26日.

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五色百人一首一覧:青札・赤札(ピンク札)・黄札・緑札・オレンジ札の色別

心 あて に 折ら ば や 折 らむ 初 霜 の 置 きま ど は せる 白菊 の 花

【2001年10月20日配信】[No. 特に朝の冷え込 みはかなりのもので、風邪をひく人も多いことでしょう。 皆さん お気をつけください。 もうすぐ、朝には霜が降りはじめます。 その年はじめての霜を 「初霜」といい、関東では10月20日くらい、関西では11月10日く らいに降ります。 鈍く輝く初霜は美しいものですが、その霜にま ぎれた白菊もまた清楚な美しさを見せることでしょう。 今回ご紹 介するのは、そんな一首です。 真っ白な初霜が降りて見分けがつかなくなっているのだから、 白菊の花と。 【折らばや折らむ】 「折らば」は四段活用動詞「折る」の未然形に接続助詞「ば」が ついたもので仮定条件を表します。 「や」は疑問の係助詞です。 「む」は意志の助動詞で上の「や」と係り結びになっています。 全体では「もしも折るというなら折ってみようか」という意味で す。 【初霜】 その年はじめて降りる霜のことです。 晩秋に降ります。 【置きまどはせる】 「置く」は、「(霜が)降りる」という意味です。 「まどはす」 は、「まぎらわしくする」という意味で、白菊の上に白い霜が降 りて、白菊と見分けにくくなっている、という意味を表します。 【白菊の花】 上の句の「折らばや」に続く、倒置法になっています。 生没年不明) 9〜10世紀初頭にかけて生きた人で、下級役人であり、甲斐少目 (かいしょうさかん)、和泉大掾(いずみのだいじょう)、淡路 権掾(あわじごんのじょう)などの職につきました。 しかし歌才 に優れ、紀貫之と並ぶ当時の代表的歌人として宮廷の宴に呼ばれ たり、高官の家に招かれたりしています。 三十六歌仙の一人で、 古今集の撰者です。 当時から「詠み口深く思入りたる方は、又類 なき者なり」と非常に高く評価されていました。 空気が刺すように冷たく、吐く息が白く濁 る。 手のひらに息を吹きかけてこすりながら縁側へ出てみると、 庭の可憐な白菊の上に鈍くも白い初霜が降りている。 寒いわけだ、初霜とは。 初霜も白いので、白菊の花を折ろうと 思っても、どれが白菊だか分からない。 あてずっぽうに折るしか ないだろうな、初霜でまぎらわしくなっているから。 白菊の花が。 「初」というのは清らかさがイメー ジされる表現ですが、そこにきりっと体が引き締まるような冷気 を加えて、この歌の格調を醸し出しているようです。 倒置法にしたことで、最後に持ってきた「白菊の花」に焦点が 絞られるように組み立てられてもいます。 派手な言葉遊びや序詞は使っていないものの、さりげなく上手 い、名人の手になる一首でしょう。 さすが下級役人ながら古今集 の撰者となり、紀貫之のライバルと目された作者の面目躍如とい うところでしょう。 これは嘘の趣向である」と酷評しています。 今読むと、子規の批判の仕方は風流を解しないなあ、ちょっと 真面目すぎるんじゃないか、とも思われますね。 特に凡河内躬恒は知的で深い思索的な歌を得意とする歌人です ので、この評価はちょっといただけない感じがします。 ただし、子規は「恋に悲しめば、誰も一晩中袖が濡れ続けるほ ど泣いているのか」などといった、王朝風のすでに使い古されて 陳腐になってしまった大げさな表現を今だに大事にしている歌の 世界に疑問を感じて、「写生」つまりリアリティの大切さを説き たかったわけです。 今では子規をはじめとする先人の活躍で、歌 の世界も構造改革がなされましたので、百人一首などの古い名歌 もまた、楽しめる余裕が出てきています。 菊というと、まず思い浮かぶのは大 阪・枚方市の枚方パークの大菊人形展です。 大阪の地下鉄御堂筋 線・淀屋橋駅から京阪電車に乗り換え、枚方公園駅で下車。 園内 には約10万株の菊が咲き誇ります。 東北では秋田・横手公園の菊などが有名。 JR横手駅から保養セ ンター行バスに乗り、横手公園入口で下車して5分の距離にあり ます。 横手城跡の見学かたがた行かれるとよいでしょう。 東京では、新宿御苑で菊が見られます。 地下鉄丸の内線新宿御 苑前で下車します。 中国地方では、広島県福山市の精興園が有名です。 菊の育種と 品種改良を専門に行っている企業の庭園で、数千種の菊がありま す。 JR福山駅から福塩線に乗り換え、新市駅で下車し、タクシー で約10分の距離にあります。

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白露伊吹,白露

心 あて に 折ら ば や 折 らむ 初 霜 の 置 きま ど は せる 白菊 の 花

小生は、歌を作《な》すほどの人は、誰でも萬葉集の心に始終すればいいと思つてゐる。 萬葉集の心は、吾々が歌に入る第一歩の心であらねばならぬと共に、歌に果てんとする最終歩の心であらねばならぬと思つてゐる。 それほど、萬葉集は歌の命を正しく深く豐かに盛つた歌集である。 それならば、萬葉集の歌の命とする所は如何なる所にあるか。 それは、第一に自己の眞實に徹してゐるといふ點にある。 歌の命が、作者の眞實性と始終するといふほどのこと、作歌者の誰でも承知してゐる平凡事であるが、その平凡は、吾々が日々に浴してゐる日光の平凡にして貴重大切なるが如きものである。 日光が生物の命と始終する如く、眞實は歌の總べての正しき生長と始終する。 今の世は、人間が増殖して、人と人との接觸が多いために、生活精神が多方に分岐して、分岐の個々に力が薄く、力の薄い個々が一點に集まつて強大な力となることも少く、一面、社會的興味に伴ふ世間氣ともいふべきものが割合に多く發達して、個々獨自の根柢所に徹して生活するといふ風な心持が稀薄になつてゐる。 歌が矢張それであつて、今の人の作す歌は、往々にして力が薄く、その上、ともすると、世間氣が多く交じつて來る。 つまり、世間の流行とか嗜好とか、批評評判とかいふものを目安に置いて歌を作るから、自己内心に湧き來る眞情に直面して、專心にその眞情に即かうとする執意を疎かにする。 それゆゑ、作す所の歌が底力を備へて、惻々として人を動かすほどの權威を持ち得ないのである。 これは、又、一面からは今世人の過度なる理智の發達とも關聯してゐる。 今世人は理智の力を以て、容易に敏速に藝術に唱へらるる主義主張の輪廓を知り得る。 容易に知り得る所を目安として、早く自己の藝術をそれに當て嵌めようとするから、その間に上滑りや輕薄が伴ひ易いのである。 理智の理解と眞の到達との間には時間があり、距離がある。 距離と時間とを省略して到達を簡便にしようとする所に今世人の弱所があるのであつて、今の世にある多くの歌が、多く底力を缺くのは、如上の事情から、何所までも自己の眞實に即かうとする根強さを疎かにするためであらうと思はれる。 さういふ弊所をもつてゐる今世人であるから、徹頭徹尾自己の眞實に始終してゐる萬葉集の歌に接して、之を親愛し、之を尊敬して、居常その薫化と保育を受けることは、吾々歌人に最も必要なことと思ふのである。 元來、理想は單なる理想として考へられるよりも、それが具體的な現れとなつて示される時、鮮かに吾々の感動を刺戟する。 萬葉集は、歌の根本義として吾々の希求するものの一大具現であり、特に、それが吾々上古祖先の所産であつて、その中に吾々の血液の源泉が鮮やかに見出されるのであつて、それによつて吾々の感受を常に新鮮にすることは、同時に自己の性命を新鮮に保つことになるのであつて、斯る歌集が千餘年後の吾々に貽されてあることは、大なる仕合とせねばならぬのである。 眞實は、又、その一面が素樸率直となつて現れる。 萬葉集の歌、特にそのうちの前期ともいふべき時代の歌は、如何にも素樸率直な歌が多くて、子どもの無邪氣な口つきから出る言葉や、地駄々々を踏んで泣き叫ぶ聲を聞く如き感じを與へる歌が多く、それが何れも自己の眞實に根ざしてゐるから、些の厭味を交じへないのである。 この期の歌は、多く喜怒哀樂といふ如き單純な感情が歌はれ、その感情が純粹|一途《いちづ》に集中してゐるから、作者自ら知らざるに、自《おのづか》ら人生の機微に參し得てゐるといふやうな快い境涯がある。 句法に繰返しの多きは、子どもの言語に繰返し多きに似、一語々々の響きにも訥々たる幼なさがある。 萬葉集の中期に入ると、歌が追々藝術的に進んで來て、中に、柿本人麿、山部赤人の如き大きな歌人を出して、それらを中心として生れた當時の歌の中には、藝術としての至上境と思はれる所にまで入つてゐるものがあるのであるが、それらの歌が、何れも素樸さや率直さから離れてゐないのであつて、つまり、自己の眞實に徹して歌はれてゐるから、至上境として眞の力を持ち得るのである。 この期の歌は、初期に比べると、歌の範圍が人事自然の各相に亙つて擴がり、而も、それが豐かに滿ち高く張つて、藝術の要求する崇高性嚴肅といふ如きものを持ち得て、或るものは圓融具足の相に入り、或るものは暢達流動の相となり、或るものは高邁、或るものは蒼古、或るものは明澄、或るものは沈潜の姿となつて現れてゐるのである。 後期に入れば、中期の藝術的方面を更に藝術的に押し進めてゐる人々が現れると共に、萬葉の素質的方面から離れはじめるといふ現象も伴ひ、それらの人々には理智的な觀念的な歌がぼつ/\目につき、後に現れる古今集の歌風などへの橋渡しをするといふ觀があるけれども、大體に於ては、矢張、萬葉集の眞髓を捉へて中期の歌風を繼承したといふべきであつて、全篇四千五百首の歌、多くは、吾々の尊敬すべき命をもち得るに於て充分である。 即ち、吾々が萬葉集を仰望するのは、單に眞實性の現れなるが故とのみでは盡して居らぬのであつて、それらの素質を押し進めて、藝術の至上所に到達せる歌の種々相から深い感銘を受けてゐるのである。 これは具體的擧例によつて説くことにする。 元來、萬葉集は、仁徳天皇御宇から淳仁天皇御宇天平寶字三年に至る四百五十年間の歌を輯めたものであるが、舒明天皇以前のものは極めて少い。 舒明以後のものを三期に分ければ、舒明より天武に至る約五十年間が前期であつて、主として明日香地方に朝廷のあつた時代である。 それから、持統文武兩帝約二十年間が中期であつて、主として藤原に朝廷のあつた時代であり、萬葉集としては歌の最も頂上に到達した時である。 それから以後は奈良朝と言はれる時代になるのであつて、元明より淳仁に至る約五十年が後期になるのである。 第一期には未だ特別な歌人と言はれる人が出て居らず、第二期に入つて前記人麿・赤人の如き代表的歌人が出て居り、第三期には山上憶良・大伴家持などの代表的歌人が出て居るが、この期の代表的歌人は、何れも人麿や赤人に比すべき歌人ではなく、却つて無名の作家、例へば、關東から西陲の守備に遣された防人《さきもり》などの歌に生き/\したものが見えて居り、狹野茅上娘子《さぬのちがみのいらつめ》の如き一少女の歌に痛切な叫びが聞かれてゐるといふ有樣である。 以下歌例によつて前期中期後期の歌の大體を説かうとする。 併し、これは、大きな爲事であつて、各期に於ける代表作悉くを説くことは、今ここにはなし難い。 心付いたものをぼつ/\と拾つて行き、それによつて、各期の面影を髣髴させることが出來、且つ、それらを綜合して、萬葉集の性命の一端を現し得れば幸である。 序を以て言へば、萬葉集の歌は、悉く正確には今日に傳はつて居ない。 それは、奈良朝以後世々書寫を以てこの本を傳へたのであるから、筆寫の際に誤りがあるのみならず、その誤りある寫本も、平安朝末期頃を最古として、極めて僅少のものが今日に傳はつてゐるのみであつて、諸本を校合して正否を定めるに便でない。 只、鎌倉時代中葉に僧仙覺が出て、十數種程の諸寫本を校合して、文字を正し訓詁を施した。 それが今日萬葉集の原據となつてゐるのであるが、その仙覺本さへも正しくは今日に傳はつてゐない。 徳川時代の學者の據つてゐた本は、仙覺本と他本との交錯があつて、正しい仙覺本に據つたものとは言はれない。 斯樣な事情から、萬葉集中の或る歌は、今以て文字及びその訓詁の何れとも決し難いものがある。 今私の説かうとするのは、それら訓詁の問題に亙らうとするものでなく、古來學者の釋義を擧げて研究を進めようとするものでもない。 それらは、すべて他日にゆづる。 以下述べるもののうちにも、訓詁釋義の上に問題のあるものがあるであらう。 それは諸本や諸訓を考へ合せた上、小生一人の考を以て採擇した訓義であると承知して頂きたい。 これは東國の或る少女の詠んだものであらう。 小草は地名で、小草壯丁《をぐさを》といふのは、小草村(?)の或る男を指すのであらう。 その小草村に、又、他の一人の男があつて、それを小草助壯丁《をぐさすけを》と言つてゐる。 助壯丁は好色男子の事であらうと言はれてゐるが、或人は、助丁の事であらうとも言つてゐる。 助丁は、大寶令で定められた中男(十七歳より二十一歳迄の男)次丁(六十一歳以後の男)を合せた稱號であるらしい。 兎に角、この歌の作者である少女に言ひ寄つた男が二人あつて、それを「小草壯丁と小草助壯丁」と言うたのである。 「潮舟の」は「竝べて見れば」の枕詞である。 枕詞とは、或る縁のつながりを以て、一つの詞の上につく詞であつて、多くは五音から成つてゐる。 山の頭につく「足曳の」天の頭につく「久方の」などの類であつて、その枕詞がつくために音調の調節がつき、或は一種の情趣を生み出すのであるが、これは古くから傳習的に傳はつてゐるのであるから、萬葉時代には、雙方の詞の間に繋がる因縁の不明になつてゐるのが多い。 それでも「腰細のすがる少女」などといふ時は、「腰細の」の枕詞が少女に對して一種の情趣を生み得てゐるのである。 枕詞が出て來たゆゑ、簡單な説明を挿んだのである。 この東歌一首の意は、小草壯丁《をぐさを》と小草助壯丁《をぐさすけを》と二人から自分に言ひ寄つてゐるが、この二人を比べて考へて見れば、どうも小草壯丁の方が勝つやうな心地がするといふのであつて、言ひ現し方が如何にも素樸で直接である。 「勝ちめり」は勝つらしいといふほどの心持であつて、思ひ煩うた心持が有りのままに現れてゐるのみならず、その音調が如何にも子どもらしい。 これほど無邪氣な心に接しては、如何なる人でも之れに抗することは出來ないのであつて、つまり、眞摯な心が何物をも服せしむるほどの力を持ち得るといふ消息の一端を窺ふべきである。 「くらべて」と言はずに「ならべて」と言つてゐるのは、心の中に二人を思ひ浮べてゐるのであつで、左樣な急所が自然に適切に如實に現れてゐるのは、自己の眞實に徹せんとする心の態度から自から生れ來る現象であつて、歌に於ける寫生の極致は斯る所にある。 私は、前に萬葉の特徴として、眞實を基礎として素樸率直等の諸性を擧げ、それが藝術の至上境に達しても、それらの諸性を離れることのないことを言うた。 それは萬葉の歌を内面から見た言ひ方である。 それを外面から言へば、表現が如何にも直接であるといふことになる。 これらの歌がそれであつて、何所にも間接なまはりくどい、品をつくつた現れがない。 丁度子どもの口から出る言葉は、舌がまはらぬやうであつても、何處も間接な處がない。 いやなものは嫌といひ、嬉しければ聲をあげて喜ぶ。 東歌の表現の直接さは殆どそれに通じて居り、萬葉全體の表現がすべてその系統に屬してゐる。 この歌一首に於ても左樣な特徴は充分に窺ひ得るのであつて、幾たび誦しても口邊に微笑を催さしめるほどの天眞さをもつて居るのである。 兒毛知山は山名であつて所在不明である。 上野國に今兒毛知山といふのがあるさうであるから、それかも知れぬ。 若楓は楓の若葉である。 楓の葉は蛙の手に似てゐるゆゑ、古「かへるで」といひ、後に「る」が省かれて「かへで」と呼ぶに至つた。 ここでは楓の葉であつて、「若楓」は楓の若葉を言うたのであらう。 「紅葉《もみ》づ」は紅葉することであつて、古は斯く動詞として用ひられ、後に名詞にも轉用せられたのである。 「寢もと」は「寢むと」の意で關東方言である。 「吾《わ》」は古「吾《あ》」とも言ひ、それに「れ」を添へて「われ」「あれ」などとも言ひ、今は主もに「われ」だけが殘つてゐる。 「思《も》ふ」は「思《おも》ふ」の略であつて、今の人の口語にも「ともふ」といふ如き發音をする。 「汝《な》」は今の「汝《なんぢ》」の意で、それに「れ」を添へて「なれ」などと言うた。 (本當には「なんぢ」は「なもち」の轉用であらう。 なもちは名持であつて男子の尊稱である。 大名持尊などがそれである)「何《あ》どか思《も》ふ」は「何と思ふ」の意で、「あどか」は關東の訛りである。 一首の意は、家の近くの兒毛知山に生えてゐる楓の若葉の赤く萌え出づる時までも、いつ迄も、お前と斯うして寢てゐたいと私は思ふ。 お前は何う思ふ。 といふのであつて、「寢《ね》もと吾《わ》はもふ汝《な》は何《あ》どか思《も》ふ」といふ言ひ方が如何にも率直無邪氣であつて、その口つきの子どもらしさまでが、前の歌とよく似てゐる。 特に此第四五句「寢もと我《わ》は思《も》ふ」「汝《な》はあどか思《も》ふ」と二つに切つて竝べてゐる所に無邪氣な調子がよく現れてゐる。 斯樣な關係を歌の調子若くは格調・聲調・節奏などと呼ぶのであつて、詳しくは各音の響き方、各句の響き方、それらを合せた一首全體の響き方の關係を指して言ふのである。 それは「寢もと吾《わ》は思《も》ふ」以下各音のもつ響きを考へても、それが如何に一首の素樸な調べに調子を合せて居るかが分るであらう。 斯樣な調子は決して作爲的に出來るものではない。 作者に素樸な心の動きがあつて、初めて斯る格調に到達し得るのである。 自然に到達するのであつて、人爲的に眞似るべきものでないのである。 猶この歌について言へば、作者のゐる近傍に兒毛知山があつて、その山に楓の木が多く生えてゐたのであらう。 その楓は、もう芽をふく頃であつて、紅の若葉美しく開くのに間のない頃であつたらう。 さう思ふと、二人相寢てゐる心持までが餘計に具體的に想像出來るのである。 萬葉人は決して自己の今の感情に縁もゆかりもない物や事がらを持ち出して歌を詠むといふことが無かつたのであつて、歌ふ所は皆直觀的に心を動かしてゐるものである。 兒毛知山でも若楓でも同じくそれであるゆゑ、歌が生き/\として、作者の實感にぴたりと合ふことが出來るのである。 歌が直觀的に詠まれねばならぬといふことは斯樣な處でも覺ることが出來るのである。 歌の直觀から離れたのは、古今集以來題詠の盛んになつてからのことである。 古今集以後の歌の墮落したのは全くこの直觀から離れたことに起因してゐるのである。 猶、この歌の「若かへるでの紅葉づまで」を楓の若葉の色と解したのは、小生の一人決めであつて、諸説皆秋の紅葉と解してゐるやうである。 そこは解者の自由に任せる外はない。 下野國住人の歌である。 「安蘇の川原よ」は「安蘇の川原より」の意である。 その川原よりお前の家を訪ねるために、川原の石を踏むのも夢心地で、宛ら、宙を飛んで來た心地である。 それほどにしてお前を思うて來た。 さあお前の本心を告《の》れは告げよの意である)といふのであつて、石を踏みしも覺えぬといふことを「石踏まず」と強く斷定してゐる言ひ方にも、作者の強烈な感情が現れてゐて、宛ら、作者の息づかひを聽き得る心地がする。 それを更に「空ゆと來《き》ぬよ」と言つてゐるのは「空を來たやうな心地だ」と言ふべきを、それでは、もどかしかつたのであつて、その關係は「石踏まず」と言ひ切つた心と照合して解し得るのである。 此歌第一句より第四句まで斯の如く強い調子で押してゐる。 その勢を以て「汝が心|告《の》れ」と言ふのであるから、これには女も本心を打ち明けずには居られないであらう。 それほどの威力をもち得るのは、作者の眞向きな心から來てゐるのであつて、作者の眞實を火に加へて直ちに之を熱したほどの烈しさが現れてゐる。 無邪氣天眞な心の一面は、又、斯の如き強さをもち得るのである。 この歌、弟四句で切り、第五句に獨立句をどしりと置いた句法、一首聲調の上から重大な響きをもち得てゐることに注意すべきである。 高麗錦は當時舶來の錦であつて、東國人としてはハイカラであるが、これは立派な衣服といふほどの心であること、丁度、今の人が上等の品物を上等舶來などといふ類である。 その立派な著物の下紐を解き放して相抱いて寢るといふのである。 古は下紐を解くといふこと實際の大事であつて、夫の旅立ちの時などは、妻が夫の紐を結んで、又相見るまでは必ず解く事なしと誓うたほどである。 それゆゑ、もし、何かの拍子で自然に解けたりなどしても、夫が妻に對して言ひ譯がないといふやうなことまであったのである。 それほどの大事である。 その下紐を解き合うて寢たら、女に對する愛憐の情も、もう滿足しさうなものであるが、それでも猶足らない心地がする。 この上何と爲よとか奇《あや》しく可愛いことである。 といふのが歌の意である。 愛憐の心には限りがない。 寸を得て尺を希ひ、尺を得れば猶其の上を希ふのが眞實であつて、その眞實があるゆゑ愛をもつ心は常住苦しいのである。 それは滿足感の生む不足感である。 その心持が「あど爲《せ》ろとかも奇《あや》にかなしき」と現れてゐるのは、如何にも遣る瀬なき心の眞實が躍り出てゐる心地がする。 これ亦東歌の特徴をよく現してゐる歌の一例である。 「何《あ》ど爲《せ》ろ」は「何と爲よ」を意味する關東語である。 「あやに」は奇《くす》しく靈しき意であり、「かなしき」は愛憐の意である。 「とふ」は「といふ」の省約であり、「大をそ鳥」は「大虚言鳥《おほうそどり》」の意、「まさで」は眞實の意、「子ろ」は子であつて、今の人が娘の事を「あの子」「この子」など言ふ如く、古も主として男が女を親しみ呼ぶ時用ひたのであるが、稀には女が男を呼んで「子」というたこともあるのであつて、ここでも男を指してゐるのである。 子ろの「ろ」は添辭であつて特別の意義はない。 一首の意は、鴉といふ大うそつき鳥が、本當に來もせぬ君のことを、如何にも本當に來るらしく「子ろく子ろく」と鳴く。 憎らしい鳥ぢや。 というて鴉に言寄《ことよ》せて「來さうなものぢや」といふ催促を男に訴へ言うてゐるのである。 何うも馬鹿げた所があつて面白い。 特に作者は女である。 古代の女丸出しの素樸さに、今人、とても及びもつかぬ心地がする。 これを「あら、いやだ」など言うて眉をしかめる女は、當世の纎弱な文明に慣らされた神經病みの女であらう。 思ふに作者は、對手の男と餘程親しい間柄であらう。 一面から見れば戲れに似て、その戲れの中に親しみと眞實がある。 待ち切れないで男に送つた歌であらう。 田家の娘の生活が有りのままに現れてゐる。 「稻つけば」は取り入れた米を臼に舂くのである。 「かがる」は「あかぎれ」の切れることである。 殿の稚子《わくご》はその娘と相思の男である。 稚子は、ここでは若々しく瑞《みづ》々しき男を意味する。 「殿のわくご」であるから、その男は可なりの身分をもつた家の息子であらう。 毎日稻を舂いて皹の切れる我がこの手を取つて、今宵も殿の稚子が嘆いて下さるであらう。 といふのであつて、米を舂きながら今夜の逢瀬を想つてゐるのである。 米を舂くのは辛い。 まして手に皹の切れるのは、殿の稚子に對しても心が後れる。 この手を取つて嘆いて下さる情が身に沁みるのである。 全體が愼ましやかに、しをらしい少女の心が如何ににも適切に現れてゐる。 「嘆く」は長く息づくことである。 ここで「嘆く」と言うたのは、必しも皹の手をいたはつて嘆くといふ意のみではない。 愛憐の情が餘つて長息となるを指すのである。 猶第一句「稻つきて」と言はずして「稻つけば」と言うたために、情趣生動する趣きを思ふべきである。 「稻つきて」といへば、切れる皹が靜止する。 「稻つけば」といへば活動して、連續的の意が聯想せられ、從つて稻をつく動作まで連續的に想像せられるのであつて、この少女の毎日稻をついてゐる生活がよく現れるのである。 斯樣な微細な相違が歌を生かしたり殺したりする。 短歌は全體が三十一音であるから、一音二音も惜しんで用ひる所がなければならぬ。 大ざつばの現れを以つて滿足するやうでは本當の命ある歌は生れぬのである。 如上、一二音で生きるといふやうなことは、矢張り作者の眞實性に徹しさへすれば、自づとその域に至り得るのであらう。 麻笥《をけ》は績んだ麻を入れ置く箱であつて、今でも信州諏訪山浦地方では麻笥《をんけ》と呼んでゐる。 「ふすさ」は「澤山」の意味であり、古、普通には「ふさ」と言うた。 「來せざめや」は「來らざらめや」の方言であり、「いざせ小床に」は「いざ小床に入らせ」と促す意味である。 田家の夫が妻に對して、そんなにせつせ[#「せつせ」に傍点]と麻を麻笥に澤山績み入れて働かずとも、明日といふ日が又來るものを、今夜はその位にして置いて、さあ床に人つて一所に寢ようぢやないか。 といふのが歌の意である。 これも農家の生活が宛らに現れてゐて、樸訥な田夫の顏つきまで目に見える心地がする。 農夫の生括は苦勞なものであるが、一面には暢氣《のんき》なものであつて、我々の想像の及ばぬ悠久境が拓かれてある。 この歌には、その苦勞な生活と一面の悠久境が兼ね現れて、而もその兩面が渾然一如となつてゐるといふ感がある。 この歌第一句より四句まで連續した勢を一旦踏み切つて、第五句の「いざせ小床に」といふ獨立句を提起してゐるために力を生じてゐるのである。 歌の調子の上から注意すべき所である。 防人《さきもり》などとなつて西國へ旅する男と別れんとする女の歌であらう。 「しだ」は「時」の意で關東語である。 「はふり」は「溢るる」意である。 遠く隔れば、相見ることも、音問を通ずることも出來ない。 或は、お互に顏を忘れるといふやうな心細さまでも思はれる。 その時は、この國土に溢れて山の上まで立ちのばる雲を見て、あの邊りが私のゐる方の空だと思ひ偲んで下さい。 といふのであつて、遠く離れて思を寄する手《た》づきもなく、せめて雲を見てあのあたりかと心あてに思を馳せる外はない。 その心細さは男の心であつて、同時に作者の心である。 吾が面の忘れん時と言うてゐる心には、同時に、男の面の忘れられん時をも考へてゐるのである。 それゆゑ、「國はふり嶺に立つ雲」というてゐる。 自分の住める國に溢れて山の上まで立つ雲は、それが雲であると共に作者の心でもあるのである。 その雲を見て偲んで下さいといふのは、同時に自分の心を偲んで下さいといふ哀れなる訴へである。 雲をいふに「國溢り」といふ強い現し方をしてゐるのに作者の心の寄せ方を思ふべきである。 古人は象徴などいふ詞をも、理窟をも知らないけれども、一心籠つて雲を捉ふる時、その雲が自然と作者の心の象徴になり得るのである。 今人作す所の象徴歌は、往々にして理解先づ至つて故らにそれに當て嵌めようとするゆゑに、奇怪な虚假おどし歌が出來るのである。 萬葉集の歌は直情徑行的の歌が多いから、悲しいとか、嬉しいとか、悔しいとか、なつかしいとかいふ如き、所謂主觀的言語が多く使はれてゐるであらうと思ふ人が多いやうであるが、必しもさうでないことは、この歌に見ても、前掲數首の歌に見ても分るであらう。 萬葉人は、屡々言ふ如く、すべて直觀的に心を動かしたものに即して歌うて居り、若くは、直觀と同じ程度の強さを以つて心に結象せらるるものを歌うて居るから、歌ふ所多く事象物象の心に觸れ來る要核を捉ふるに專らである。 それゆゑ、悲しい嬉しいといふ如き詞は割合に多く用ひられずして、その主觀が自然に事象物象の中に籠つてゐる。 つまり、外に現るるよりも内に充つるものが深いのであつて、突飛と思はれ大膽と思はれるほどのことを歌うても、それが何所かに重く厚い所があつて、輕薄感から免れてゐるのである。 所謂主觀的言語も可なり多く用ひられてゐるが、それはせつぱつまつて、どうしても出さずに居られぬと思はれる場合に出してゐるのであつて、その用法甚だ自然で、輕薄感に陷らぬのである。 主觀語の餘り多く用ひられるのは、大抵の場合輕く薄つぺらである。 今人多く自己の主觀を重ずると稱して、主觀語を駢列して得たりとする色がある。 輕薄な歌の多く生れる所以であらう。 「嘖られ」は、叱り懲らされる意である。 「青雲の」は「出で」の枕詞である。 これは、男が女の家へ通うて行つたのに、その母に見付けられて叱り懲らされたのである。 昔「よばひ」といふ事ありて、男の女へ通ふに、家の人に發見せらるるを以つて最も恥とした。 その俗、今も八丈島等に遺りて、男の苦心すること甚しい。 古の戀は、今の文化人の戀の如く表向きに堂々と押し出して恥づる所なきの類でなかつたやうである。 この作者も苦心したのであらうが、遂、その母に發見せられて、空しく立ち歸らねばならなかつた。 「こられ吾《あ》は行く」がそれである。 併し、どうも未練が殘る。 そこでその女に向つて、吾妹子よ。 一寸ここまで出て來い。 おれは今お前の母に叱られて家に立歸るが、せめて相見るだけでも相見て行かうといふのである。 如何にも素樸で直接な言ひ方である。 一面には未練であり、一面には暢氣《のんき》な所もあり、大不首尾なのに對して正面に眞面目に物言つてゐる所、一種の滑稽をさへ覺えしめる。 それほど田舍者の素樸さが現れてゐるのである。 「立ちど」は「立ち所」「平《な》らす」は地を平らにすることである。 青柳の芽の張りいづる川邊で、わたしやお前を待つてゐる。 實は清水汲みに言寄せて來てゐるのだが、清水汲むのも手につかず。 ぢつと斯うして待つてゐるうちに、わたしの足で土を踏み平《な》らしてしまうた。 といふのであつて、待ち遠くして待ちきれぬ心が内に自づから籠つてゐる。 「立ち所《ど》平《な》らすも」の結句、實によく作者の待ちあぐんでゐる心と光景とを現してゐる。 寫生の極致と言ふべきである。 この歌恐らく女の歌であらう。 我々の祖先は千餘年以前にあつて、斯樣な場合の咏嘆に「青柳のはらろ川門」といふ如き景物を持ち來して、情趣を生かすことを知つてゐた。 風景畫は東洋に於て千六七百年前から獨立して居たさうである。 西洋はそれより千二三百年も後れて風景畫の獨立を見た。 東洋人の自然物に親しむ性情は畫にも歌にも現れてゐるやうである。 以下折々に參照を望む。 東歌中秀作の一つである。 「はたすすき裏野の山」は「薄の生えてゐる裏野の山」の意で、斯樣な言ひつづけ方、他にも例がある。 「つく」は月であり、月夜を「つく夜」の例が多い。 男が庭に立つて女を待つてゐる。 待つても待つても影が見えない。 そのうちに芒の生えた野つづきの山へ月が移つて傾きはじめた。 もう夜も明くるに近いが、それと思ふ影も見えない。 彼の子ともう寢ずになるであらう。 と深き溜息を洩らしてゐるのである。 その溜息が如何にも落ち付いて、沈んで、深められてゐるために「寢ずやなりなむ」は啻に今宵一夜のみでなく、永く縁が離れはせぬかと嘆いてゐると思はれるほどの力を持ち得てゐる。 それほど沈潜した心持は、この歌の調子に現れてゐるのであつて、各音の持つ響きが騷がしからす、第二句で一旦詞を切つてゐるため、餘計に調子に落ちつきが出來てゐるのである。 今迄列擧した東歌の如きは、何れも作者感動の調子と、歌に現れた調子とが適切に相合致してゐる。 歌を鑑賞するには、そこまで立ち入つて見て居らねば本當でないのである。 そこまで立ち入ることの出來ない作者や批評家は、歌に盛られた材料や思想に重きをおいて、作つたり、鑑賞したりする。 それは歌として低い程度にある間の所作である。 猶、私はこの歌を男の歌として解する。 それは、「彼の子ろと寢ずやなりなむ」といふ如き口ぶりや、外に出て久しく待つてゐる情態からして、さう思はれるのである。 さうすると、この場合は、女が男の所へ通つて來るのである。 さういふことが、この時代にあつたらしく、萬葉集中、他の歌にも、さういふ場合が見えてゐるやうであつて、眞淵などもそれを認めてゐる。 信濃國北安曇郡には「池田大町女のよばひ男|後生樂《ごせうらく》寢て待ちる」といふ俚謠も遺つてゐる。 井上通泰氏は「屋外の山野にて出で逢はむと契りて女を待ちかねたる趣なり」と説き、面白けれど「寢ずやなりなむ」は矢張り屋内を言ふ感じである。 「うませ」は厩の口から馬を出さぬやうに、太い丸木などを架して置くものであつて、馬を塞ぎ止めるゆゑ「うませ」といふ。 或は、放牧の外圍をかこふ材を「うませ」と言うてもいい。 この歌は前者の場合のやうである。 「はつ/\に」は「ほんのわづかに」の意である。 この歌の意は、わづかに新膚觸れしあの子が愛《かな》しい。 といふのにあつて、第一二句は「はつ/\に觸れる」を言はんがための序詞《ついでことば》である。 序詞とは、或る事を言はんがために、それと或る點で因縁ある他の事柄をその上に置いて、言はんとする事がらに一種の情趣をもたせるのである。 この歌で言へば、馬が馬塞《うませ》越しにして麥を食むゆゑ、その口が麥に僅かに觸れるのであつて、それと「はつ/\に新膚觸れし」といふことを縁をもたせて、新肌觸れた感じに一種の情趣をもたせてゐるのである。 萬葉集には、可なり多くこの序詞を使用した歌が見えて居る。 併し、その序詞は、後世の序詞や掛け詞の如く、理智的に何か縁あるものを求めて來て、作者の手柄を現すといふやうな藝當的のものではない。 萬葉作者の序詞として用ふるものは、現さんとするものと、直接因縁ある直觀的なものを持つて來るのが普通であつて、そのため情趣が餘計に生動し來るのである。 この歌で言へば、新膚觸れた子或は作者の生活に接近して、馬が飼つてあるに相違ない。 そして、それは、男の生活か女の生活に密接に關係してゐるものであるに相違ない。 さうすると、この歌餘計に或る情趣を生み來つて、作者の生活その物をも想像し得て、それを背景としてこの歌を味ふことが出來るのである。 「麥食む駒の」の「の」は「の如く」の意味に用ひられてゐる。 序詞には、多くこの「の」が付いてゐるやうである。 猶この東歌、一本に「垣越《くへご》しに麥|食《は》む駒のはつはつに相見し子らし奇《あや》に愛《かな》しも」と載つてゐる。 序詞の關係相似てゐる。 これも結構である。 「あり衣」は織り衣であるともいひ、絹布であるといふ説もあり、或は「たま衣《ぎぬ》」と訓んで、玉をつけた衣と解するもあり、玉は單なる美稱とするもあり、よく分らないが、何れにせよ、よき衣であるらしい。 さういふ衣は、著る人の動作につれて、さわ/\と音を立てる。 音を立てるが、それは騷ぎつつ猶靜かな音であり、沈んだ音である。 「さゑ/\しづみ」がそれであつて、「あり衣の」は、それを言はんがための枕詞である。 「さゑ」は「さゐ」の訛り、「さゐ」は「騷《さゐ》」である。 「しづみ」は「鎭み」「沈み」「靜み」等の意である。 國もと出立の折りは、今も昔も取りこみが多い。 心も身もさわ/\して落ち著きがないうちに沈ましい心持がある。 それを形容するために「あり衣」を以てしてゐるのを見ても、古代人の寫生の如何に微に入つてゐるかを窺ひ得るのである。 左樣な沈んだ心持で家を出たから、わが妹《いも》に言ふべきことも多く言はすに來たのであらう。 それを思ひ出して「思ひ苦しも」といふ心甚だ憐れである。 倉皇[#「倉皇」いずれも立心偏]として別れ、惆悵として懷ふところの心理が、眞に徹し微に徹してゐる。 この歌、或は人麿作として「あり衣のさゐさゐ沈み家の妹にもの言はず來て思ひかねつも」(卷四)とも傳はり、更に「水鳥《みずとり》の立《た》たむ裝束《よそひ》に妹《いも》のらに物言《ものい》はず來《き》にて思《おも》ひかねつも」(卷十四)「水鳥《みずとり》の立《た》ちのいそぎに父母《ちちはは》にものはず(「もの言はす」の約)來《け》にて今《いま》ぞ悔《くや》しき」(卷二十)等の類歌があるのは、この歌、人情の機微に入れるゆゑ、當時關東に流行し、人麿も聞き傳へて、その手記に入れおきしが、後、人麿作としても傳はつたものであらう。 民謠には、さういふ傳播が多く、傳播が民謠としての成立、若くは、その生長の一つの條件になるやうである。 傳播の廣く且つ久しきは、民謠としての値多きを證するものであつて、これらの東歌も、當時關東地方で民謠的に謠はれたものであるかも知れない。 「天の原富士の柴山」は天聳《あめそそ》り立つ富士の柴山の意であつて、非常に雄偉な感じを起させる。 關東野人は果して單なる素樸者でないのである。 柴山は富士山樹木帶近く住める民人より出でし名であらう。 その樹木帶の中に相逢はんことを約して、男先づ樹下に立つて待つてゐるのであらう。 あたりは針葉樹の木下暗である。 待つ時が長くて、來る人が遲い。 こんなに時が移(ゆつりは移りの訛り)り行かば、遂に逢はずになるかも知れぬと嘆くのであつて、その嘆きが天の原富士の柴山と、木の下闇の背景によつて、異常な感じに引き入れるのである。 東歌中の異彩あるものであらう。 「天の原」「富士の柴山」と切つて、第二句以下勢を伸して押して行く姿が、裾野の遠く押し行く姿に通ふ心地さへする。 「逢はずかもあらむ」八音字餘りの調子が甚だよく据わつてゐる。 この歌も樣々の解釋がある。 今略す。 「をてもこのも」は「彼《か》の面《も》この面《も》」の意で關東語である。 「か鳴る」は音立てることで、古義に「かしましく鳴る」と解してゐる。 井上通泰氏は、今東京邊にてやかましくいふことを「がなる」といふ方言あるは其の遺れるのであらうと説けるは名説である。 實は小生もそれを考へ居り、今度この稿を起して、新考を參照するに及び、既にその説あるに驚いたのである。 本書は、さういふ方面へは入らない筈であるが、先を越されて、少々悔しかつたから言ふのである。 足柄山のをちこちに、鳥獸を獲んがための係蹄《わな》を刺しておく、その係蹄を引く時々に音を立て、音と音との間は山野が靜まりかへつてゐる。 その靜かさを序として、二人相靜まつて紐どき寢る心持を歌うたのであつて、初より「かなる間」までが「靜み」を言はんがための序詞になるのである。 萬葉の序詞が直觀的であつて、歌の命に息を吹き入れてゐることは前に述べた。 この序も亦作者の生活に近いものを捉へて寫生が機微に入つて居り、不安とまでならずとも、次の動搖を豫想する如き靜かさの心持をよく現してゐる。 この歌、中村憲吉君は、男女山野にて相紐解いた古俗の現れならんと言うてゐる。 多分さうであらう。 「子ろ吾れ紐解く」の言ひ方も無邪氣で幼くていい。 「霞みゐ」は霞が居《ゐ》るのである。 一二句は「過《す》ぎ難《がて》に」を言はんがための序である。 霽れんとして霽れぬ霞と、行き過ぎんとして過ぎ難くする動作とを相通はせてゐるのである。 あなたは、吾が家のあたりを行き過ぎんとして、猶躊躇して深き溜息を洩らしてゐる。 それほどにして私を思うて下さるのに、何うして只このまま歸らせませう。 いざ共に寢ようといふのであつて、「過ぎがてに息づく君」の寫生が會心であり、「率寢てやらさね」も直接で心地がいい。 矢張り東歌の面目である。 「率寢てやらさね」(やるは遣るの意。 率寢は率て寢るの意)は他人に命令し希望する詞なれど、ここでは轉じて自身に命令してゐるのである。 今人も、自身に龜して獨語的に「やつてやれ」「爲方がない書いてやれ」といふ如き命令の詞を出すことがある。 それである。 心の急なる時、語意の轉換されること例が多い。 (三〇七頁「語法の超越」の項參照)この第五句解、世に異議多いかも知れない。 上野國多胡地方にある山である。 一二三句は「豈《あに》來《く》や靜《しづ》し」を言はんがための序である。 多胡の山へ寄せ綱をかけて引つぱるけれども中々こちらへ寄つて來ない。 「豈來らんや。 啻に來らざるのみならず、その状甚だ沈著なり」といふほどの意で、序と本意と心持がよく通じてゐる。 出雲風土記に國引の事出で居り、山を畚にて擔ひ歩くといふ如き傳説も各所にあり、上代人には大まかな途方途轍もない想像があつて面白いのである。 この作者の女に對する焦燥の心も、寄せ綱で引き寄せたいほどに思ふのであるが、その一方に、神經過敏でない、大らかな素樸さがあつて甚だ快い。 眞向きに言つてゐる所に滑稽の面影さへある。 「豈|來《く》や」「靜《しづ》し」「その貌善きに」調が強く、ぶつきらぼうで直接である。 東歌の面目をよく現した歌であらう。 「豈來や」を「あ憎《にく》や」と訓ませ、「靜し」を「沈石《しづし》」と訓ませる説もある。 「靜し」は關東訛りであらう。 「皇后天皇を思《しぬ》ばして詠みませる歌四首」と前書してあるうちの一首である。 如何にも激しい感情が率直に現されてあつて、萬葉前期の特徴を具備してゐる。 「戀ひつつあらずは」(あらずばではない)は「戀ひつつあらんよりは」の意である。 「枕《ま》きて」は「枕として」の意であつて、上古は、四段活用の動詞になつてゐる。 「高山の磐根し枕《ま》きて」といふのは、上古、死者は皆山に葬る習はしであつたから、死ぬると言ふことの代りに、岩を枕にするといふ詞が存在してゐたのである。 「死なましものを」の「ものを」は、感じを重く強く現さんがための感動詞である。 一首の意は、これほど天皇を偲《しの》んで苦しい思ひをして居らうよりも、いつそ、高山の磐根を枕にして死んだ方が増しである。 迚も現在の苦しみには堪へられぬ。 といふほどの御心であつて、その激越な感情が、「磐根し枕きて」の「し」「て」の如き強い響きになり、猶「死なましものを」の「ものを」といふ如き由々しき感動詞となつて現れてゐるのであつて、如何にも堪へ得ざる心の有のままなる表視であるといふ心地がする。 記紀の記録によれば、磐姫皇后の御性格は非常に嚴しく激しくあらせられたやうであつて、仁徳天皇と多くの女性との關係に對して可なり心を惱まされたやうであり、終りに、山城の筒城宮に入つて天皇と別居されたのであるが、それも天皇に對する熱情の現れであつたと想像せられる。 その嚴しく激しい性格が端的に歌の上に現れてゐる所、正に萬葉前期の歌を代表するものである。 猶、この歌を、中村憲吉君は解して、皇后深夜閨中の御作であらうと言うてゐる。 面白い見方であるから參考のために附記する。 同じく磐姫皇后の天皇を思《しぬ》び奉つた歌四首中の一首である。 是等の歌は單に初期の歌と言ひ去るべきではない。 初期中期末期を通じての秀品であり、藝術としての高所に人つてゐるものといふべきであらう。 さういふものも初期時代に現れてゐること東歌の條で言及した。 この歌第三句までは第四五句を言はんがための序である。 (序詞のこと三二頁參照)「霧らふ」は地や空の水氣の朧ろに立ちこめることであつて四段活用の動詞である。 霧《き》らん、霧《き》り、霧《き》る、霧《き》れ、と働き、第二段|霧《き》りの活用が名詞になつて、今日は霧《きり》といふ名詞が普通に用ひられてゐる。 萬葉時代にあつて、霧霞などの語は、古今集以後の如く觀念的なものになつて居らず。 春でも秋でも霧霞は存在し得たのであつて、その用法極めて自然であつた。 秋の稻田の穗の上にぼうつと霧《き》らうてゐる朝霞は、晴るるが如く、晴れざるが如く、日光の徹るが如く徹らざるが如く、何れとも頼《よ》るべなき心持を伴ふ。 斯の如き自然の光景の微細所を捉へて、これほど簡單な現し方をしてゐるのは驚異とすべきである。 その稻田の霧を序として、何方《いづべ》のかたに吾が戀ひ止まん。 といふ便なき心を現したのは、如何にも適切の感があつて、序と四五句と相合致して、天地悠久の憂ひにまで到達するを覺えしめる。 これは、皇后が憂鬱の心を抱いて稻田の上に立ち動く霧を見つめて居られたに相違ない。 穗の上に霧らふ朝霞は、霞であつて同時にそれが皇后の憂ひの御心の姿であつたのである。 萬葉の序詞は、斯の如く何時も直觀的であるがために歌の生命を深めて居ること前に説いた所である。 古今集以下になると、この序詞が全く知識的になり、觀念的になつて、直觀の意から離れるゆゑ、歌の命を薄くしてゐるのである。 例へば「わが袖《そで》は干潮《しほひ》に見《み》えぬ沖《おき》の石《いし》の人《ひと》こそ知《し》らね乾《かわ》く間《ま》もなし」(千載集)に就いて見ても、人こそ知らね乾くまもないものは何であるかと考へて、第二三句の序詞を案出したと見えるのであつて、「わが袖は」とかけて何と解く。 と間ふ謎解きの類に終つてゐるのである。 相對比して兩者の歌の命の相違を領すべきである。 「いづべの方にあが戀止まむ」は、「わが戀ひ止まん方も知られず」の意を強く言うたのであつて、何方に向いても思ひはるけん方なく、頼みとすべき術もないといふほどの果敢ない心持である。 仁徳天皇皇妹の、旅なる庶兄に贈り給うた歌である。 あなたに別れて、初めの一日二日のほどこそ堪らへて居られましたが、かう長くなつては、とても堪りませぬといふのであつて、一日といふ詞は、朝から夕まで待ち通してゐる心から自ら發せられた詞であつて、單に、一日二日と數へる一日の意ではないのである。 第四句は「待てば」に「斯く」が添はつて作者の心が如實になり、「のみ」が添はつて更に痛切の度を増すのであつて、「待てば」の「ば」がその勢を受けて一氣に「ありがてなくも」と押し進んでゐる。 その勢如何にも直線的で烈しい。 一體「有りがてなくも」は語法上よりすれば「在り得る」の意である。 「ありがて」(下二段活)が「有り難い」「在り得ず」等の意であつて、それに「なく」が添はつて反對の意になるからである。 それにも關らず、この句、人をして「有り得る」の意に解する餘地なからしむるは、七音の句勢が分岐せずに、直に一直線に進んで「なく」を單なる感動詞として働かせるほどの力になつてゐるからである。 實際、この場合の「なく」は「無く」の意でなくて「在りがて」の語勢を強めるだけの役目を持つてゐる。 集中、この他にも「草枕旅のやどりに誰《た》が夫《つま》か國忘れたる家待たなくに」(卷三)等があつて「家待たなくに」は「家人が待つのに」の意に用ひられてゐる。 (三〇七頁「語法の超越」の項參照)今日の日常語にも「要らざらない」は「要らない」ことであり、「怪しからない」は「怪《け》しかる」ことであり、「負けず嫌ひ」は「負け嫌ひ」の意である。 「負け嫌ひ」を「負けず嫌ひ」と言はねば調子の要求が滿足せず。 調子にその要求あるは感情にその要求があるからである。 歌の調子と感情の要求と合致する場合は、往々にして語法の約束をも突破することがある。 それほど、調子は歌の上に大切な位置を占めてゐるのである。 この歌、初句より強い調子で起《おこ》つて、結句までその勢を一途に押し進めて、その現れが甚だ端的である。 初期の特徴をよく備へてゐるものとすべきであらう。 猶、第三句「日數《け》」は「來經《きへ》」の約まりであると解されてゐる。 幾日も幾月も經過する場合に「け長き」「け長し」などと慣用されてゐる詞である。 「けのこのごろ」「朝にけに」などの「け」も經過長き意が伴つてゐる。 第二句「人をも待ちし」は古來「人も待ち繼げ」の訓ありて今も從つてゐる人々がある。 參照のために附記する。 舒明天皇御製である。 これとよく肖た歌で、雄略天皇御製歌が卷九に出てゐる。 毎夜、小倉山に鳴く鹿が、今夜聞えないのは、もう寢てしまうたのであらう。 というて、動物に對す愛憐の情が、素直《すなほ》に濃《こま》やかに現れてゐる。 「夕されば」は「夕になりくれば」の意である。 「されば」であつて「ざれば」ではない。 「春されば」「秋されば」「夕さりて」など皆|清《す》んで訓むべきことは同じである。 「けらしも」は「けり」の活用へ「らし」が添はつたのであつて、「も」は感動詞である。 「らし」は今の世「さうな」などいふに近い。 この歌、第四句で一旦句を切り、鹿の聲の聞えぬことを敍して、四邊の靜寂な心持を現し、更に句を起して、寐たさうなと敍して、鹿の身邊を思ひやる心が自ら現れてゐる。 姿が極めて自然であつて、靜寂な境と愛憐の心が深く動いてゐる。 何度讀んでも、讀む度に心の深められるのを覺える歌であつて、萬葉集中の秀作たること誰も首肯する所であらう。 前期にも、實に斯ういふ傑れた歌がある。 期を以つて分つといふこと、これらの歌になれば不要を感ずる。 而も、歌の姿は單純率直且つ素直であつて、前期の體と合してゐる。 「中皇命《なかちひめみこ》の紀の國にいでませる時の御歌」といふ前書がある。 中皇命は、徳川時代の學者からは、中大兄皇子(後に天智天皇)の御妹《おんいもうと》とされて居つたのであるが、近頃異説が出て、明白な決定がない。 兎に角、天智天皇以前舒明天皇以後の皇女であつたことは確かである。 昔は旅の道中、高貴なお方であつても、假屋を作つて一夜の宿としたのであつて、小家を作り、萱を葺くといふ如き煩ひが多く、隨分辛苦をせられたやうである。 「吾が背子《せこ》は假庵《かりほ》つくらす」と言ふのがそれであつて、背子は、女が男を親しみ呼ぶ時の呼び詞である。 背《せ》のみでもその意であり、それに「子」が添はつて更に親しみの詞になるのである。 「子」は主もに男が女を親しみ呼ぶ時の詞であるが、女の男を呼ぶ時に用ひることもあり、殊に、背子など續ける時は多く男を呼ぶ詞になり、稀に男が男を親しみ呼ぶに用ひることもある。 これは序を以て言うたのである。 假廬は「かりいほ」であつて、旅の道中につくる小家である。 「つくらす」は「作る」の音を延したのであつて、鄭重な言ひぶりが敬語になることもあるのである。 「草《かや》を苅らさね」は「草《かや》を苅らせ」であつて、「せ」を延せば「さね」になり、「さね」を約めれば「せ」になるのである。 つまり、これは、萱をお苅りなさい。 といふ言の敬語になる。 一首の意は、吾が背子は、今旅の宿りの假廬を作つておいでになるが、屋根を葺く萱が不足ならば、あの小松の下にある萱をお苅りなさい。 といふのであつて、その詞つきも、心づかひも實に素樸そのものの姿である。 「草《かや》なくば小松が下の草《かや》を苅らさね」と草《かや》を重ねて言うてゐるのは、稚拙にして子どもの口調に類して居り、それだけ純眞な情が籠つてゐるのである。 萬葉初期の代表歌として必ず逸すべからざる好作であらう。 この歌をわが師伊藤左千夫は解して、多分御兄妹のままごと遊びせられた時の御歌であらうと説いてゐる。 ままごと遊びの時の歌と思はれるほど、無邪氣な心の現れてゐる歌である。 孝徳天皇の皇子有間皇子《ありまのみこ》が齊明天皇の時に謀叛せられたため、紀伊に送られて、藤白に自經せられた。 その紀伊道中での歌である。 笥《け》は筥《はこ》であつて、食を盛る器である。 形が丸い。 丸くないといふ議論あれど、小生にはよく分らぬ。 櫛を入れる筥を櫛笥《くしげ》といひ、麻を績み入れる筥を麻笥《をけ》などいひ、各その形を具してゐるであらう。 草枕は旅の枕詞である。 一首の意は明瞭である。 家にあれば身分相應の食器に飯を盛る。 それが圖らざる旅の身となつて、笥に盛ることも出來ずに、椎の葉に盛ると言うて、忽ちにして身の上の變つた歎きを敍べられたのである。 現れ方が如何にも素直で素樸で直接である。 萬葉初期の歌の好例となすに足りる。 前の仁徳天皇皇妹の歌は「待」を繰り返し、中皇命の歌は、「草《かや》」を繰り返してゐる。 この歌には「盛《も》る」といふ詞を繰り返してゐる。 同じ詞を繰り返すのは、子どもの心理に通じた現れである。 萬葉初期にこの句法の多いことは、當時の歌の素樸さを現す一つの證徴である。 大凡、萬葉の歌を説くもの、歌の直情吐露なるを言うて、その表現に主觀句の多いを想うてゐるもの多きは、萬葉の歌に徹せずして、漫然萬葉を説いてゐるからである。 この歌にしても、自己境遇の變遷を歎くの心が、内に切にして、外に何等の主觀句を用ひて居らぬ。 主觀句を用ひずして、却つて、主觀の深く泌み出てゐるを覺ゆるのは、これを寫生の心理に通じて考へることが出來るのである。 寫生を以つて沒主觀なりとし、理智的表現なりとし、甚しきは藝術上の啓蒙運動なりなど説いてゐるものは、有間皇子のこの歌に對しても、同じく理智的であり、沒主觀であるとするであらう。 さういふ淺解者は語るに足らないのである。 前の中皇命の歌にしても、只「草《かや》なくば小松が下の草《かや》を苅らさね」というて、親愛の心が自ら泌み出てゐることを解し得れば、寫生道の如何なるものであるかの一端を領し得るであらう。 これは、藤原鎌足の歌である。 當時諸國司より國内の美しい女を擇んで朝廷に致して宮仕へをさせたのが采女《うねめ》であつて、その采女の中でも、特に容色秀れたるものに安見兒と名づくるものがあつた。 その安見兒を鎌足が手に入れることを得た時、歡びのあまり詠んだ歌である。 劈頭「吾はもや」と歡びの聲を揚げてゐる所、先以つて痛快である。 ここでは「は」も「も」も「や」も感動詞である。 「は」は他と區別するための助辭であつて、その意の強いために、歌の上では多く感動詞の努めをなすのである。 吾といふ詞へ三つの感動詞を添へたのは、よきものを得て「僕は/\」と呼んで躍りあがる子どもの心理に似てゐるのである。 特に、この句の終りをなす「や」の掛りが強く、これを受ける第二句「安見兒得たり」の「たり」が更に強いために、安見兒を得た歡びの心が非常に強い響きをなし得てゐるのである。 「得がてにする」は「得難くする」の意であつて、一首の意極めて明瞭である。 「安見兒得たり」を繰り返して、却つて自然を感ぜしむるほど無邪氣な歡びの滿ち滿ちた歌であつて、初期代表の作の一として逸すべからざるものである。 額田王は、初め大海人皇子《おほあまのみこ》(後に天武天皇)と相思うて、その中に十市皇女《とをちのひめみこ》を生んで居られる。 後に天智天皇も額田王に思ひを寄せられたために、御弟大海人皇子との間に確執を生ぜられたと言はれて居り、或るものは夫れを以つて壬申亂の大なる原因とまで考へてゐる。 この歌は、多分、額田王が大海人皇子との間を割かれて、天智天皇の近江朝廷へ徙られる旅の道中の作であらうと想像される。 三輪山は、この時奈良坂を越え行く額田王の背後に遙かに見える山であらう。 懷しい人に別れ、優しい土に別れ、遙々近江の國に向ふ道中に、最後故郷の形見として殘されて見えるのがこの三輪山であらう。 その三輪山さへも雲に隱れて見えなくなつた。 人に離れて土に縋り、土に離れて空に縋るのが別離の人情である。 その空に見えてをる山さへ雲に隱れたのであるから、額田王堪へられずなり給うたのである。 それゆゑ、劈頭に「三輪山を然かも隱すか」と叫び且つ訴へてゐる。 激したる情のありのままなる現れである。 その一二句を受けて更に「雲だにも情《こころ》あらなむ」と訴へてゐる。 切《せ》めて雲だけでも情《こころ》あれかし。 と言はれる心は、人間無情、憑むところなし。 と歎く心である。 「あらなむ」は他に龜して願望の心を掛ける時の詞である。 その第四句を受けて、更に第五句に至つて「隱さふべしや」と、雲に對する訴を繰り返してゐるのは、繰り返さずには居られない熱情の現れであつて、これも亦萬葉前期の歌の繰り返し句多きに通じてゐる。 「隱さふ」は「隱す」の延音である。 「隱さふべしや」は「隱すべきにあらざるに非ずや」の意であつて、反語を用ひて詞の意を重大にし、「べしや」と押す語勢が特にその勢を助けてゐる。 これは天武天皇の吉野に行幸せられし時の御製である。 一首の意は、今わが入り行くこの吉野は、昔より良き人の良しと能く見て、良しというた芳野である。 その芳野を能く見よ。 と侍者に仰せられるのであつて、更に、その意を繰り返して、第五句に「よき人能く見」を重ねたのであつて、全體の調子が如何にも輕快に出來て居り、首より尾までが殆ど「良し」の繰り返しに類するところ、萬葉集中の異彩をなしてゐる歌である。 この歌、作者欣快の情から生れ出てゐること、その歌の調子から領得することが出來るのであつて、輕快の情先づ現れて、それに伴ふ輕薄さを感ぜしめぬのは、衷心に動く欣快の情が純眞であるからであらう。 荷田東滿《かだのあづままろ》この歌を解して、天武天皇壬申の亂平らいで後、侍臣を具して再び吉野へ行幸遊ばされた時、得意の情自ら禁ぜずして詠ませられた歌であらうと説いてゐるのは卓見であつて、この侍臣は、更に立ち入つて考へれば、恐らく、侍臣以外の額田王であるかも知れない。 額田王は、實に壬申亂後再び前の相思であらせられる天武天皇に隨伴始終することが出來たのである。 これは、天智天皇の近江の國|蒲生野《がまふの》へ遊獵し給うた時、これに隨はれた額田王が、同じく扈從せられし大海人皇子に獻つた歌である。 「茜根刺す」は紫の枕詞である。 紫は「むらさきぐさ」と稱する草であつて、紫の花が咲くさうである。 紫野は地名ではなく、その紫草の咲いてゐる野を言ふのである。 標野は遊獵の地を占めて他のものの入るを禁じてある野である。 第一句より第三句までは、大海人皇子扈從の動作を言うてゐるのであつて、「紫野行き標野行き」と「行き」を重ねて、その動作鮮明に爽快に眼底に映ずるを覺えしめる。 左樣に、行き且つ行いて君の袖振る擧動を、野守(野の番人)に見咎められはせぬかと心配して、此歌を獻つたのであつて、君が袖振るを野守は見ずや。 といふ普通の敍べ方を顛倒して四五句をなしたのであつて、顛倒の姿に却つて情の切なるが現れてゐる。 「雨が降つて來た」といふ詞に切迫の意が加はる時「降つて來た。 雨が」と順序を顛倒するの類である。 古へ男女相思の意を現すに、多く袖を振り、領巾《ひれ》を振つたやうである。 如何なる振り方をしたかを明かにしない。 大海人皇子は英雄であらせられる。 衆人環視の中で、遠慮を脱して盛に額田王に向つて袖を振られたであろう。 その動作は、額田王に對して如何に快感を誘起せしむるものであつたかは、第一二三句の調子によつても解し得る所である。 快感と威謝と二つながら動くと共に、一方には、人に見知られるといふ危惧の情が動く。 野守は見ずやと言うたのは、天智天皇を初め、多くの侍臣を指してゐること明瞭である。 この歌、句法の變化に富んで、却つて情趣の生動を覺えしめる。 萬葉初期の歌として一異彩を持ち得てゐる。 左千夫先生は、時々この歌を言はれて小生等の歌に節奏の變化なく、生動の姿乏しきを叱られた。 猶、額田王は、萬葉中にあつて才氣煥發の概ある女性として注意を惹かるる御方である。 而も、その歌多く生動して、些の厭味を伴はぬのは、情先づ動いて才氣これに隨ふためであらう。 それが、あべこべになつて、才氣先づ動く時、歌は多く機智的になり、輕薄なものになり易い。 才人の戒むべき所であらう。 中大兄皇子《なかのおほえのみこ》(後に天智天皇)の作であり、播磨あたりへ行啓せられた時、海濱で作られたのかと思ふ。 「わたつみ」は、元來は海神のことであるが、後に轉じて海の意にも用ひられてゐる。 ここでは海の意である。 豐旗雲は、旗の如く打ち靡いた雲であつて、それに「豐」が付いて大きな感じを帶びる。 この語恐らく中大兄皇子の造語であらう。 (この語の造語なるは正岡子規が先づ言つたと記憶してゐる)海上遙かに棚曳ける豐旗雲である。 それに入日が刺してゐる。 これだけで、如何にも壯大雄偉の感が起る。 四五句更にそれを受けて、「今夜《こよひ》の月夜《つくよ》清《まさや》けくこそ」と言うてゐる。 「つくよ」は月夜であり、又、月のことでもある。 「まさやけくこそ」は「清《す》み明《あ》かくこそ」「清《きよ》く照りこそ」など樣々の訓みあれど、小生は古泉千樫君の訓に從つたのである。 この下二句、今宵の月夜は清明《まさや》けくこそあれ、と斷定してゐるのであつて、上句の壯んなる勢を受けて、大磐石の如く据わり得てゐるといふ感がある。 一首の意は明瞭であらう。 境は海濱である。 海上遙かに豐旗雲が棚引き、それに夕日の光がさしてゐる。 今夜の月夜の清明なること想ふべしと斷定してゐるのであつて、氣宇の広闊雄大なること、多く比を見ないほどの歌である。 第三句「刺す」と言はずして「刺し」といふ中止法を用ひて、語を言ひさしにしてゐる。 さういふ所がこの歌を大柄にしてゐること、作歌者の特に注意すべき所である。 歌を大柄にしようとして「刺し」と用ひたのではない。 大柄な氣宇が自然に斯樣な句法に到達せしめたのである。 この關係は、歌の根本問題となるべきものであつて、更に深く作歌者の心を致すべき所であらうと思ふ。 この歌、實に中大兄皇子の大化改新の大業を成し遂げられた高壯なる氣宇を想見せしむるに餘りあるほどの御歌であつて、或る説の如く、この歌他よりの竄入であつて、中大兄皇子御作であるまいとするが如きは、小生の取らない所である。 萬葉集を通じての秀作であらう。 舒明天皇の大和國|内野《うちぬ》に遊獵せる時、例の中皇命が間人連老《はしうどのむらじおゆ》をして天皇に獻らしめた長歌の反歌である。 「玉きはる」は「内」の枕詞、「馬列めて」は「馬を列べて」であり、「朝踏ます」は「曉より鳥獸を踏み立てる」ことである。 「踏み立てる」とは當時遊獵上の用語である。 境は内《うち》の大野《おほぬ》である。 そこに舒明天皇以下馬を乘り列べて、曉より鳥獸を踏み立て給ふらんところの、その草深き野の光景を想像したのであつて、「その草深野」と名詞止め二五音(その(二音)くさふかぬ(五音))の結句を以つて一首に堂々たる据わりを生じてゐる風姿を想見すべきである。 歌は結句が重く据わらなければ一首としての力を生じ得ない。 第一句より第五句に讀み進んで、その第五句の響きが、更に歌全體に反響すること、恰も、撞木が撞座にあたつて、響きが鐘全體に及ぶといふほどの力を持つて、初めて一首の風姿生動するを得るのである。 萬葉に二五音の結句多く、古今集以下にそれが少いことも、兩者歌風の相違を考ふるに參考となるのである。 「その」といふ代名詞は、歌の上に利いて用ひられること極めて少い。 この歌の結句、その點についても參考となるのである。 第二三四句、境地と句法と相待つて清爽な感を成し得るに於て充分である。 初期中に於ける秀作の一つである。 猶、この歌間人連老の歌とする説多けれど、小生は女性の作と思ふので、矢張り中皇命の作とする。 田部忌寸櫟子《たなべのいみきいちひこ》が筑紫太宰府へ任官せられた時、別れを惜しんで或る女の詠んだ歌である。 時代はよく分らないが、暫く前期中へ收めておく。 作者は古來舍人吉年、或は舍人千年等と傳はつてゐるが、諸説ありて定まらず。 もし舍人某が眞ならば、その舍人は氏であつて吉年・千年何れにせよ女の名であらう。 これは古義の著者鹿持雅澄もさう解してゐる。 衣手は袖であつて、どちらも衣服の手をとほす部分をいふ名である。 (袖は衣手《そで》であつて、衣手《ころもで》と同義である)衣手《ころもで》に取りとどこほつて哭く子にも猶まさつて、離れがたくする私をあとに取り遺して、あなたは何うなさるのであらう。 私もせんすべの手《た》どきが分らない。 といふのであつて、あなたは何うなさるといふ心は、自分も何うしていいか分らないといふ心であつて、詞に於て一方を言ひ、情に於て雙方を言うてゐるのである。 (「如何にせん」を自分だけに用ひられる詞とする説は狹い)「取りとどこほる」は、取りついて離れ難くする意であつて、左樣な場合の動作の寫生が眞に入り要に入つてゐること、前掲東歌「手離《たばな》れ惜しみ泣きし子らはも」と共に雙璧をなす觀がある。 この歌、初めより終まで句勢暢達して女らしい姿と、女らしいあはれさがあり、特に「置きていかにせむ」あたりは、子どもの汚れざる如き純粹さがある。 この作者、恐らく美人にして醇直な心の持主であらう。 そこまで想像するのは危いのであるが、歌の心と、心の姿と、體の姿と一致すること、往々にして例證されることがあるやうである。 これを宣長が男の歌と解して、第四句「我を」は「君を」の間違ひであらうと言うてゐるのは、宣長に歌の命が分らないのであつて、これほど女性心理のよく現れた歌を、何うして、さう考へたかを想像し得ない。 恐らく第五句「如何にせむ」を自分の立場より言へる詞として、一般的に解したためであらう。 果して、その師眞淵は「四の句の吾をは君をの誤なりといふもあれど、此歌は旅の別れの妹背の相聞の贈答にて、妹吾れを留め置きていかにしけむとよめるなり」と言うてゐる。 それが本當の見方である。 小生の記述は、訓詁釋義の異同を考へるを目的としないのであるが、歌の鑑賞が歌の命に觸れ得ない時、歌全體の解釋まで見當を外《そ》らして、それが訓詁の異同にまで及ぶことある一例として言及したのである。 藤原夫人《ふじはらのきさき》の歌である。 「天《あめ》の御門《みかど》」は天皇を指す。 「懸け」は「心に懸ける」のであり、「泣かゆ」は「泣かれる」の意であつて所動の詞である。 夫人は天《あめ》の御門《みかど》を思ひそめ奉つたのであつて、恐らく、天武天皇夫人として未だ宮中に人らぬ間の歌であらう。 「畏きや天の御門を懸けつれば」といふ。 簡にして滿ちて居り、調べが高く揚つて、謙抑の心がある。 左樣な由々しき句を「ば」といふ強い響きで受けて、更に句勢を下に徹らせて、第四句「哭のみし泣かゆ」と切つて居り、第五句「朝宵にして」と言うて、反響を歌全體に及ぼしてゐる。 生動の状如何にも會心である。 「哭のみ」「し」「泣かゆ」皆強く重い響である。 それに對して、第五句結びが「にして」である。 毫末の弛みがなくて、固苦しさの痕がない。 戀の歌として、緊張異常であつて、而も虔ましい姿のあるのは、初めて天武天皇を戀し奉つたほどの歌であるからであらう。 前掲、磐姫皇后の御歌の激越なるに比しても、その消息が窺はれ、この前の舍人某女の歌に比して見ても、それが窺はれるやうである。 この歌は、柿本人麿歌集から出たものであつて、人麿歌集所載の歌は悉く人麿の作とは限らないが、これは一首の格調風姿の上から察して、恐らく人麿の作であらうと思はれるので、今日では、多くの人が左樣に信じてゐるのである。 「足曳の」は山の枕詞、「山川」は山中を流るる川、「湍の鳴る」は瀬音の響くこと、「なべに」は「ままに」等と意が略ぼ等しい。 本來は「竝べ」の意であつて、一の現象に竝んで他の一の現象の現るるをいふから起つた詞であるらしい。 例へば、日の傾くといふことがあれば、それと竝んで蜩の鳴くといふことが起る。 さういふ關係を「夕づく日傾くなべに蜩の鳴く」といふやうに連ねるのである。 弓月が嶽は山の名である。 この歌、山川の湍が鳴つて、弓月が嶽に雲の立ちわたる光景を「なべに」の一語で聯ねて風神靈動の概があり、一首の風韻自ら天地悠久の心に合するを覺えしめる。 人麿作中最も傑出したものの一であらう。 小生、先著「歌道小見」にこの歌をやや詳しく解説したので、今又筆をつけても、同じことを反復するに過ぎぬの感あるゆゑ、ここに、その一部を摘録して參照に資せんとする。 (上略)この歌について言ひましても「山川の瀬の鳴るなべに」と一氣に進んで第四句を呼び起すところに多く生動の趣きがあるのでありまして、この「なべに」といふ濁音を含んだ第一二句が、第四句二個の濁音と相待つて山川の景情生動の趣きをなしてゐる勢は、之を他の如何なる句法(例へば「なべに」の代りに「ままに」を用ひる如き)を以つてしても換へることの出來ないものでありませう。 これは勿論「なべに」の持つ意味より來る力もあるのでありますが、響きから來る力と、その響きの全體の節奏に及ぼす影響が大きいのであります。 (言語の響きというても意味から全く切り離して考へることの出來ないのは勿論です)殊に、第一二句弖仁波「の」の疊用を受けて「鳴るなべに」と押し進んでゆく勢を想ふべきであります。 第四五句は、是に對して、更に非常の力を以て据わつてゐるのでありまして、金剛力を以て前句を受け且つ結んでゐるといふ概があります。 この力も、主として調子の上に現れてゐるのでありまして、第五句二五音が、主として力の中心となつて居ります。 試みに第五句を「雲ぞ立つなる」「白雲立つも」など三四音、四三音としたら何うでありませう。 歌の勢が滅茶々々に碎けてしまふでありませう。 歌の命が内容や材料になくて、調子にあることが分ります。 この歌、實に、山河自然の景物に對して、作者の心中に動いた寂蓼威(この邊まで行けば、もう寂蓼感に入つて居りませう)が、徹底して歌の調子に現れてゐるのでありまして、斯樣な歌によつて、歌の調子を會得することは爲めになると思ひます。 (下略) 以上は主もに、調子について述べたのであるが、人麿の感動が斯く一首聲調の上に徹し得て、「山川の湍」も「雲立ちわたる」も初めて靈動の姿を成すのであつて、その聲調が、如何にも、人麿の雄偉高邁な性格に合してゐるといふ觀がある。 そこまで行つて、初めて歌の個性を言ふことが出來る。 今人多く歌に個性の存すべきを説くはよい。 左樣な定義に當て篏めて個性を現さうとしても現れはせぬのである。 歌はんとする事象に全心を集中し得て、その集中が歌の聲調にまで徹することを念じてゐれば、現るべき個性は自らにして現れるのであつて、その現れの徹底するまでには可なりの難行を嘗めて、猶且つ、貫かんとするの氣魄が伴はねばならぬのである。 個性を言ふ豈容易ならんやの感がある。 小生等後生者は、人麿の斯樣な歌の前に、謙遜な心を以て向ふほどの虔ましさを持つて居らねば、歌の冥利が至らないであらう。 これも人麿歌集中の歌であるが、歌柄が人磨らしく、高邁雄渾の姿が他の作者では到底至り難い感があるので、同じく人麿作と推測してゐるのである。 「みけ向ふ」は南淵山の枕詞、南淵山は明日香つつきの地にある山、「はだれ」は古義等に「雪」と解されてゐるが、淡雪若くは斑雪等であらう。 これは、作者が明日香より遠く南淵山を望み見て、そこに消え殘れる淡雪の光を寂しみつつ詠んだのであつて、特に、巖を捉へたる所、寫生の機微に入れる心地がし、古き南畫の秀品に接する如き感がある。 材料は只巖に殘る雪である。 それが斯の如き氣品を生み來るのは、作者の自然に參する心が深く至り得てゐるからであつて、この邊になると、もう、堂々として藝術の高所に人り得てゐるといふ感がする。 「降れるはだれか」の「か」は、一面に疑ひ一面に感嘆の聲を強めたのであつて、聲調の山を成し得てゐる。 非常にいい。 世の論者、往々、人麿を人事的敍情詩人なりとし、赤人を自然詩人なりとするが、小生はそれに從はない。 只二人の歌品に各異なる長所あることだけは確かである。 それは後に時々言及する。 或るものは、又、萬葉集が人事を相手にし、古今集以下が自然を相手にしたと説いてゐる。 無稽尤も甚だしい。 萬葉集中の秀歌を擧げて來れば、天地自然の氣息に參入した歌が非常に多い。 ここに奉げた二例だけを見ても、左樣な無稽説は立ち消えになるのである。 以下中期末期の歌を參照せんを望む。 これは天智帝の皇子|河島《かはしま》皇子|殯宮《あらきのみや》の時、人麿が皇子の妃|泊瀬部《はつせべ》皇女(天武帝の皇女)に獻つた哀悼長歌の反歌である。 人麿三十歳以前の作であるらしい。 「敷妙の」は袖の枕詞、「袖易へし君」は袖を交《か》はした君の意であつて、つまり、袖を相交はして寐たことを言ふのである。 「玉だれの」は小市(地名)の枕詞、「過ぎぬ」は死去の意である。 一首の意は、泊瀬部皇女の昨日まで袖を相交はして寐ね親しんだ君が、忽ちにして小市野《をちぬ》に過ぎてしまはれた。 (小市野《をちぬ》は墓所のある所である)この世で再び相見ることがあらうか。 相見ることは出來ないといふ歎息の意を現して、皇女の身の上に同情を濺いだのである。 劈頭、直に敷妙の袖を交はして相寐たことを敍して、同棲親愛の現實感を提示し、それが忽ちにして小市野の殯宮の主となられたことを敍して、目前世相の轉變速かなるを歎き、更にそれを押し進めて、九泉の門一たび掩へば再見するに由なきの感慨に入つて、人間の無常觀に痛切な息《いき》を吹き入れてゐるのであつて、一首の情よく人生の根柢所に潜入し得て、而も現實の熱烈な執著から離れてゐないところ、宛らに生ける人麿の命《いのち》に面接するを覺えしめる程の歌であり、人麿作中の尤も傑出せるものの一であらうと思はれる。 この歌、それほどの命を持ち得てゐるのは、人麿の感慨が、よく一首聲調の上に徹し得てゐるからである。 聲調に徹し得て居ないうちは、歌の表現に徹し得てゐないのであつて、これは屡々言ひ及んだ所である。 歌の内容は、事件や事象である。 事件や事象に息を吹き入れるものは聲調である。 聲調によつて事件事象は生き或は死ぬ。 一首活殺の力を有するものは常に聲調である。 この消息を解せぬものが歌に盛られた事象や思想を捉へて歌の價を品隲する。 それは未だ歌の命に到達するに遠いものである。 人麿のこの歌の傑れてゐる所以も、一首の聲調にあるのであつて、第二句「袖易へし君」と切り、第四句「小市野《をちぬ》に過ぎぬ」と切り、更に句を起して「又も逢はめやも」と結んでゐる。 この三ケ所で切れてゐる句法は、人麿の切實なる歎きの息が、自然に左樣な斷絶を成さしめたのであつて、息づかひと調べと一如になつてゐるといふ心地がする。 それゆゑ、三ケ所で切れてをる句と句との間に、自《おのづか》ら無聲の歎きが籠り、その歎きの籠りが、無常世相の底に通じて、人生の究極所を思はしめるに足りるほどの力になつてゐるのである。 一首の情よく無常相に潜入し得てゐるというたのは夫れを指したのである。 特に「小市野に過ぎぬ」と一旦第四句で切つて、更に「又も逢はめやも」と句を起し且結んでゐる勢は、後世者なる我々の頭を垂れて肝銘すべき所であらう。 「又逢はめやも」と七音にするのが普通であるのに、「又も逢はめやも」と「も」の感歎詞を入れて八音としてゐるのも、斯くせずしては居られなかつた人麿の感慨を想ふべきであつて、八音の結句、實によく一首の聲調の重きを受け、且、結び得てゐる。 猶、この歌、以上説けるが如き感慨を現し得てゐながら、一首の中の何處にも主觀句を用ひてゐないことに注意すべきである。 深く由由しき主觀は、圭觀句などの併列によつて容易に現されるものではない。 この所、今の歌人に往々取り違へがあるやうである。 要は全心を集中して寫生に專念すればいいのである。 この歌、現實への執着といひ、無常相への潜入といふもの、皆事象に對する全心集中によつて、おのづから寫生の要核に入り得てゐるからであつて、直觀的の生き/\しき氣氛が我々の身邊に迫るを覺えしめるのは、全く寫生が至境に入り得てゐるためである。 人麿が、晩年石見國の地方小吏となつて彼の國に在留してゐる時、官用を帶ぶるかして、京に上ることがあつて、彼の地で親しめる妹に別れを告げた時の長歌の反歌である。 今、人麿の歩いてゐるのは、小竹《ささ》の葉のみ山もさやに(さやにはさや/\と音立ててゐる意である)騷いでゐる山道である。 相思ふ妹は既に遠く、向ふべき京は青雲の果てにある。 耳に笹原の風音を聞き、心に妹を思うてゐる。 思ひが悠遠で、情が自《おのづか》ら寂寥である。 その悠遠さも寂寥さも露《あら》はに現るる所なくして、自然に一首の間に泌み出てゐる所、藏する所、徹する所が皆深いのであつて、これ亦寫生の至境に入れるものとするに足りる。 この邊の消息、前の歌と照合して了解し得べしと思ふ。 この歌第三句「騷げども」ありて一首の意却りて寂しく、第四句「我は妹思ふ」ありて笹原の風が愈々生動する。 現實の相關が係つて一點にある微妙さを想ふべきであり、その微妙さへの到達は、全身の集中より生れ來るものであることを考ふべきである。 猶、この歌、或る學者は「小竹《ささ》が葉」と訓み、「み山もさやに亂れども」と訓んで居るが、聲調の透徹から考へて「小竹《ささ》の葉」でなければならず、歌の情を成すに於て「騷げども」でなければならぬと思ふのである。 この歌、同じく人麿の傑作であつて、歌の至上境に入り得てゐるものであらうと思はれる。 石見の國から京へ上る時の他の一つの長歌についた反歌であつて、境地は前と同じである。 青駒は白駒である。 純白なものには青の匂ひがあるから青駒といふのであらう。 我が乘る駒の足掻きの早さに、忽ちに妹が家を雲井の餘所となして過ぎ去り來つたといふのであつて、悠遠寂寥の情に於て前の歌と通じてゐる。 この歌、第一二句を受くるに第三四五句の調べが如何にも高踏暢達の姿をなしてゐる。 「雲井にぞ」と係つて、遠く第五句「ける」で結ぶまで、一瀉千里の勢をなして居り、それが「青駒が足掻を早み」と相待つて情意を盡し得てゐるの感がある。 この歌の場合に於ては、第一句「青駒の」ではいけない。 「青駒が」と高く揚るべきである。 前の歌第一句は「笹の葉」であつて「笹が葉」であつてはならぬことを言うた。 皆一首聲調の上に係つてゐるのであつて、斯樣な問題によつて歌の調子を解するのは有益である。 この歌も、前の歌も、人麿晩年の作であつて、多分四十歳以後のものであらう。 (人麿は四十六歳位で死んだ。 若し夫れより長生きしたとしても五十歳を出づることなかりしと思はれる)人麿傑作の一とするに足りる。 人麿が大和國で妻とした娘子との間に一子があつて、間もなくその妻が死した時の哀傷長歌についてゐる反歌である。 關谷眞可禰は、この妻の死を人麿三十六歳の時としてゐる。 四十歳前の作であらう。 月光の永久にして人間の命の倏忽なるを悲しみ、同棲の歡びを想起して、現在の落莫を歎くの意明瞭にして解説を要しない。 現し方が要核を捉へて簡潔であり、聲調がこれに伴つて玲瓏透徹の概がある。 特に第一二三句を受ける第四五句が、一氣に押し進んで居然たる据わりをなし得てゐる姿を見るべきである。 これは殊に「いや年さかる」の二五音(いや(二音)年さかる(五音)が大きな力をなしてゐることに注意すべきであり、前回に擧げた弓月が嶽の歌の結句二五音とも照合して考へるといい。 人麿には可なり多く結句の二五音がある。 これは人麿の高邁雄偉な性格から來てゐるのであつて、二五音ならざる結句も、多く重々しき据わりをもち、それが他の句々と適切に相呼應して一首堂々たる風姿をなす。 これが人麿の歌の特徴である。 この歌も人麿の傑作として擧げるに足りる歌である。 人麿二十四歳にして近江の本居より京に上りし時の歌とするものあれど、小生は歌柄から推して、それより、ずつと後の作であらうと思つてゐる。 人麿の父祖は、世々大和に居つたものであるらしいが、近江朝廷の時、人麿の父が一家を擧げて近江へ移つたとも思はれ、人麿の京へ出仕した後も、時時|衣暇《えか》田暇《でんか》等の公暇を得て近江へ歸つたらしく、さういふ時の往復に斯る歌が生れたのだらうと思はれる。 恐らくは三四十歳の間に出來た作であらう。 先づ「夕浪千鳥」はいかにも寂しい心持の現れた詞である。 恐らく人麿の造語であらう。 「心も萎《し》ぬに」は萎《しを》れる意である。 淡海の海の夕浪千鳥よ。 と呼びかけて、お前が鳴けば心もしぬに萎れて古が思はれる。 と志賀の舊都を追懷するの意を千鳥に訴へてゐる心甚だ哀れである。 一首全體の音調が「伊列音」を多く交じへて虔ましい響きに終始してゐるために自ら哀音を帶び、更に第一句切れ・第二句切れの重々しき句法を重ねて、それを第五句八音の字餘り句を以て結んでゐるために、頭負けをせざるのみならず、全體に莊重の心持が現れて、各音の持つ哀韻をして單なる感傷に終らしめてゐない。 この邊の機微皆作者の主觀より生れ出づる所であつて、形を以て模すべからざるものである。 その邊の消息を我々は考へて見る必要がある。 秀れたものの前に叩頭の至意を致し得るのは、自己を秀れしむるの第一歩である。 秀作の前に叩頭し得ざるほどの人から、何うして秀作の生れ出ることがあらう。 今人自尊、往々にして古人の前に平然として嘯いてゐる。 自らを重ずるのではない。 自らを容易にしてゐるのである。 人麿には、又第五句八音字餘りが多い。 これも人麿の感動が常に莊重に働くからであつて、一首の心持に重い落ち著きと、がつしりした据わりを生ずる。 この歌の第五句も亦さうである。 尤も、第五句字餘りは、人麿に限らず、萬葉全體に多く見受ける所であつて、それを萬葉人の特徴と見得るのであるが、人麿には特にそれがよく現れてゐるやうである。 前の第五句二五音の特徴と併せて、人麿の歌を考ふるに有益である。 人麿三十歳前二十八九歳頃の歌である。 人麿は初め二十四五歳にして天武帝の皇太子|日竝知《ひなめし》皇子に仕へ、この皇子早世せられて、その御子輕皇子が後に文武天皇となられた。 日竝知皇子薨後四年にして、御子輕皇子、御年十一歳にして安騎野《あきぬ》に遊獵せられた。 その野は、御父日竝知皇子も曾て遊獵せられし野であるゆゑ、皇子も扈從の群臣も甚だ思ひ出多く、感慨深い遊獵であつたらしい。 人麿も扈從の一人であつて、感慨を一首の長歌と數首の短歌に寄せた。 その短歌の一つがこれである。 古への旅は、高貴の御方と雖も、旅寢するに小家《こや》を構へ、茅を葺いて假りの宿りとせしこと前に言つた如くである。 況して舍人《とねり》であつた人麿等の假りの宿りは、雨露を凌ぐにも足りぬものであつたらうと想像される。 これだけの背景を置いて、此の歌を見るといい。 陽炎《かぎろひ》は光の動くものであつて、ここでは東方微白を呈して夜の明けんとするを言うてゐる。 一首の意明瞭である。 草の枕から首をあげて見れば、東方の空に微白が動いてゐる。 あたりは猶月の明りである。 顧みて西方を望めば、大月將さに落ちんとして猶空の一方に懸つてゐる。 境が偉で意が遙かである。 之を貫くに音調の高朗を以てしてゐるから、天地清澄にして枕頭霜の結ぶあるかをさへ思はしめるに足りる。 第一句より三句まで押して行つた勢を「見えて」と切り、更に第四句を起して第五句「月傾きぬ」の二五音を以て結んでゐる手法、句勢、甚だ前掲「弓月が嶽」の歌に似てゐて、これはそれに比して較や下風に立つの感あるは、弓月が嶽の歌がよく渾然一如の域に入つて居るに對し、これは上下句間に猶分岐の痕があり、それを聯ねんとした「顧みすれば」の力も猶及び難きの觀ある所にある。 これは、材料が多過ぎ、境地が大き過ぎて、流石の人麿もやや持て餘したといふ所もあらうが、一面より言へば、人麿の雄偉高邁な性格が自己の長所に辷り入り過ぎようとしてゐる一端を窺ふことが出來るとも言へる。 小生は人麿の傑作の最尤なるものを求める時は、この歌を加へ得ないかも知れぬ。 而も猶斯る歌に多く尊敬の心を寄せるのは、境と調と相待つて高朗にして沈痛な響きをなし得てゐる所にある。 序でを以て言へば、小生に歌を示す青年中、往々今度のは自信あることを告げ來るものがある。 その意、しつかり見よ。 といふにあると見える。 人麿赤人を以てしても、生涯の傑作の尤を求むれば十指を屈するに至らないやうである。 自信自信と自信を振りあげるのはよけれど、振りあげるの容易にして、振りあげた槌の輕きを致さねば幸である。 現に、左樣な聲言をする人の作にいいものの見當ること稀である。 人麿戀歌四首中の一首である。 「吾《あ》がごとか」は「吾が如くか」の意であり、「寢ねがてにけむ」は「寢ねがたくせりけむ」の意である。 自分の戀の苦惱に堪へずして、それを推して人類一般の苦惱に及び、この苦しみ古來皆然りとして、自他を憐れみつつ猶自ら慰めんとする心であらう。 第一句より終りまで打續いた句法の調子が高く揚り、宛ら大波のうねりつつ岸に押し寄せんとするが如き勢をもつてゐる所、矢張り人麿ならでは至り得ない所であつて、傑作中の尤とするに足りる。 特に、第三句「ごとか」の「か」が遠く弟五句の「けむ」に行つて結ばれてゐる姿は、獅子の首をあげてその眼の遠きに及んでゐるに比していい。 この句法、前の「青駒が足掻を早み雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にける」「御食《みけ》向ふ南淵山の巖には零れるはだれか消えのこりたる」等に通じてゐる。 これらの歌は寫生でないと思ふ人あらんも、小生は矢張り寫生歌の究極に入つてゐるものと思うてゐる。 「吾がごとか妹に戀ひつつ寢ねがてにけむ」といふのは、苦惱に對する自己の寫生を押し詰めて到り得たものである。 觀念歌でもない。 概念歌でもない。 空想歌でもない。 矢張り寫生歌である。 實は、小生の寫生歌に對する理想は、寫生が形似の接近から更に深入りして、遂に一點單純な至境に澄み入る所にあるのであつて、これらの歌が、その理想の一端を現し得てゐるものであるといふ感がするのである。 一點の單純所に澄み入るといふことは、全心の集中より來るものであり、全心の集中は切實なる實感より來り、切實なる實感は具體的事象との接觸より來る。 そこが寫生の道の生れる所である。 生れる所は夫れであるけれども、到達所は遂に一點單純所への澄み入りである。 さういふ點より見れば、前の「東の野に陽炎の……」(六七頁)の如きは、事象の展舒が多過ぎて、やや外面に羅列するの傾をもち、騷がしいといふほどならねど、猶、今少し深く統一出來ぬかといふ介意が生ずるのである。 人麿集中のものであるが、歌柄より察して人麿作と思はれる歌である。 これらの歌が外面的な虚《こ》假おどしな、材料羅列に過ぎぬ歌といふべきであらう。 天を海と見、雲を波と見、星を林と見、月を船と見立てたのであつて、結構の行き屆いてゐる所に理智の働きが見えて、痛切な實感から離れてゐることに直ぐ想ひ至り得る歌である。 歌に盛られた材料や思想で、歌を鑑賞しようとする人は、歌の外邊に彷徨して内面に潜入することを知らない人であつて、さういふ種類の人が、これらの歌を人麿の代表歌として擧げてゐるのを見受けるのは笑ふべきことである。 これは人麿の惡歌である。 今の世で、新しい歌として一時流行したものに、これと較や趣を同じくするものがあつた。 突飛な比喩や、大膽な聯想をすれば、世間が直ぐ拍手喝采するのであつて、拍手の主は多く外面的に藝術を見るだけの人々である。 突飛な譬喩惡しからず。 大膽な聯想惡しくないが、只、それが深い眞實實情の根ざしから出て居らねばならぬのである。 それから出發したものは、遂に外邊の羅列から脱して一點の單純所に入る。 形が單純であつて内に籠るものが深いのである。 これを歌の至上境といふ。 人麿は男性的長所を最もよく發揮し得た人であつて、歌の姿が雄偉高邁であると共に、その長所に辷り過ぎると、雄偉が騷がしくなり、高邁が跳ねあがり過ぎるといふ缺點があるやうである。 わが師伊藤左千夫は曾て人麿を論ずる時、人麿に對する不平の一として「内容の自然的發現を重んぜすして、形式に偏した格調を悦べるの風あること」を擧げた。 師の見る所、小生の見る所、必しも一致しないけれども、辷り過ぎる所のあつたことは爭はれぬ所であらうと思ふ。 併しながら、それは、人麿が稀に自己の弊所に入つた場合を指して言ふのであつて、長所は何處までも長所として、千載の後に光被することを認めねばならぬのである。 小生は、人麿作中の尤も傑れたるものを解説しようとして、「足曳の山川の湍《せ》の鳴るなべに弓月《ゆづき》が嶽に雲立ちわたる」以下九首を擇び、弊所を現した歌の代表として、「天の海に……」の一首を擧げた。 傑作の採擇を誤りはせぬかと心中に恐れを抱いてゐるのである。 斯の如く明白に人麿の歌を擇び出したのは今度が初めてであるからである。 以上に引きつづいて、猶立派な作が可なり多いのであるが、それらを解説してゐれば際限がないゆゑ、ここには只歌を列擧するに止どめる。 讀者の自由な鑑賞をなさんことを望む。 猶人麿歌集中には、前述九首と優に相伍するに足りる歌あれども、果して人麿作か否かを識り得ないゆゑ、これも末尾に附記して聊か解説をなすに止どめる。 「山べとよみて行く水の水泡の如し」句が簡淨で、心が異常である。 寂寥というても足らず。 清肅というて足らず。 卒然として愕き、喟然として嘆ぜしめるに足りる響きである。 それが「世の人吾れは」と合して、人生の無常感に響き入つてゐるのであつて、一首の命甚だ由々しい。 この歌の姿、矢張り人麿の姿である。 何うも人麿作と思はれるが、さう幾つもずん/\決めつけて行くこと如何と思ひ、控へ帳中に記るして置いたのである。 卷十一には、この他に「足引《あしびき》の山下《やました》とよみゆく水《みづ》の時《とき》ともなくも戀《こ》ひわたるかも」「高山《たかやま》の石下《いはもと》たぎちゆく水《みづ》の音《おと》には立《た》てじ戀《こ》ひて死《し》ぬとも」等もある。 序を以て言ふ。 日本人の祖先は現實的人生觀に居たといふ説が多い。 或はさうであるかも知れぬ。 併し、それを例證するために、大伴旅人の「この世にし樂《たぬ》しくあらば來む世には蟲に禽にも吾れはなりなむ」位の歌を引き出したのでは小生承知しないのである。 (その歌のことは後に言及する)人麿集のこの歌に限らず。 人麿赤人その他集中の傑作を檢すれば、それが如何に現實に即しつつ、人生悠久の命に參してゐるかが窺はれるのである。 現實に即するの極所が悠久所に通ずる道になるのであつて、この關係、恰も寫生の極所に似てゐる。 單なる歌の材料や内容を以て人生觀の如何を言ふ如きは、低級批評者のする所であると思ふ。 七夕《たなばた》の題ある歌であつて、高手驚くべき歌である。 作者が彦星と織女星とに同情を寄せる餘り、自ら天漢の水邊に立つて、星合《ほしあひ》の時を待つてゐる心持になつてゐる所甚だ面白い。 それが、眞實な感情から發してゐることは、歌が寫生的に詠まれてゐて、少しも不自然を感ぜないので分る。 「水ごもり草」は水邊の水がくりに伸びてゐる草であらう。 實にいい詞である。 (多分造語であらう)「水ごもり草の秋風に靡かふ見れば」と言うて初秋の心持を出してゐる所も、「時來るらし」と言うて二星の相逢ふを唆示してゐる所も、所謂一隅をあげて三隅皆應ずるの概あるものであつて、外に現るるよりも内に籠るものの深いといふ感が多く、而も一首の姿が極めて自然であり、素直であつて、情を成し得てゐる。 人麿あたりでなくては至り得ない作である。 當時、卷向の里に檜の木原ありしと見えて、よく、それが歌はれてゐる。 「ゐねば」は今の「居ぬに」などの意であつて、萬葉時代に慣用されて一種の情趣を成してゐる詞である。 「沫雪流る」は沫雪の降ることであつて、雨雪の降るを「流る」と言うたのである。 「流る」は長く繼ぎ長く傳はる意より來りし詞と覺しく、水の長くつぎて流動するをも「流る」といひ、名の長くつぎ或は廣く傳はるをも名が流れるといひ、「うき名を流す」などともいひ、雨雪の天よりつぎて降り來るを「流る」とも「流らふ」とも言うたやうである。 卷向の檜原には未だ雲がかからぬのに、風|疾《はや》く至つて目前の小松のうれに沫雪がふるといふのであつて、四邊の風物生動の趣がある。 「小松がうれに」というて沫雪の消え且つ降りかかる光景が自ら現れてゐるのは、直觀から生れたからであつて、自然に寫生の妙所に入つてゐるのである。 この歌も人麿作らしく思はれる。 歌柄が甚だ人麿に類してゐる。 どの邊かで逢ふことを約して、遠い夜道を行けども/\逢はなかつたのであらう。 そのために、衣は露霜にぬれたというて、逢はぬ嘆きを嘆いたのである。 「久方の天の露霜」といふ高い踏み方は、如何にも男性的の堂々たる姿である。 露霜は白露かも知れず、或は、單に露や霜といふほどの意かも知れす。 その邊詳かに分らない。 思ふに、人麿少壯にして、以上の如き秀でたる戀歌を詠みて人に知られ、遂に朝廷の儀式に歌を徴せらるるに至つて、歌人としての名を驚[#左上矛]せたのかも知れない。 これは、小生の據り所なき臆測である。 兎に角、戀の歌の若々しき氣漲れるは、少壯時の作なる所以であらう。 猶、卷四に「久方の天の露霜おきにけり家なる人も待ち戀ひぬらむ」といふ歌がある。 「大船の」は香取の枕詞である。 第一二三句は第四句「いかなる」にかかる序詞であるが、例の直觀的序詞であるから、恐らく、作者は香取の海に舟を浮べてゐるのであらう。 一首の意は只「如何なる人か物おもはざらむ」にある。 極めて簡單であるが、一首を味つて、どうも、豐かな大らかな、併し寂しく沈ましい情味が籠つてゐる。 これは、全く序詞の意が下句の中へ入つて、物思ひを現實に生かすためであらう。 作者は、香取の海に碇を下ろして、四方の風物に思ひを驚[#左上矛]せてゐる。 それが、「碇下し」といふ言ひさしの句法になつて、大きく迫らない感じが現れ、更に「如何なる人か物思はざらむ」といふ大らかな言ひ方と待つて一種獨特の感じを釀してゐる。 この場合の結句は「もの思《も》はざらむ」にあらずして「もの思《おも》はざらむ」八音でなければならないのである。 この歌萬葉中にあつて、優に一異彩を放つてゐる。 草さへものを思うて末枯《うらが》れたと言うて、わが思未だ成らずして、時過ぎ冬至る嘆きを歌うたのである。 季節の移り變りに尤も早く感應するものは草である。 その草を見つつ寄せる作者の感慨が、草と交感して、草に心ある如く詠んでゐるのであつて、これは、彼の「わが宿の萩のうれ長し秋風の吹きなむ時に咲かむと思ひて」(一一八頁參照)と同樣な心理である。 斯る歌、往々不自然になり易いのであるが、「草さへ思ひうら枯れにけり」と正面から露骨に斷定してゐるために、主觀の力が強く出て不自然を感ぜしめず、上句「吾が」三個を重ねた主觀の強さと相待つて、痛ましい情に引き入るる程の力をもつのである。 斯る歌も寫生歌の一つの現れである。 三首とも女性の歌である。 第一首|初々《うひ/\》しき女の心よく現れてゐる。 秀作である。 第二首高麗錦は舶來の錦であるが、ここは夫れほどの意に用ひたのではあるまい。 (二二頁參照)男のために衣を裝うたのであらう。 「紐ときさけて」は、その衣の紐を解いて男と添寢せんとして待つ心であらう。 情切にして、却つて「夕をも知らざる命」と觀ずるに至るのは、刻々を惜しむ心の自らなる歎きであらう。 念々無常を觀じつつ、猶「戀ひつつかあらむ」と大息する心甚だあはれである。 この歌三四句ありて感慨が甚だ深い。 第三首「うらぶれ」は「心《うら》さびれる」の意、「あやしくも」は自ら思惟し得ざるの意である。 下紐を結はんとして、その手が倦ゆく力なきまでに心《うら》ぶれんとは自ら思惟せざりしといふのである。 男を待つに、下紐を解くはよけれど、下紐を結ふはをかしいといふ説もあるが、ここでは下紐が肝要であつて、解く。 何れなるかの如きは、小生は關心せすして感心し得るのである。 「下紐の」は「下紐を」説もあつて問題になり得る。 聲調の上から言へば「の」にしたいのである。 「山へなり愛《うつく》し妹は隔《へな》りたるかも」と「隔《へなる》」が層々重なつて勢をなしてゐる。 井上通泰氏は前の隔を「へだて」とよみ、後のを「へなる」と訓んで「月見れば國同じきを山隔てうつくし妹がへなりたるかも」としてゐるが、これは調べの上から具合がわるい。 この類歌、大伴池主が家持に贈り、家持がそれに對して「足引の山は無くもが月見れば同じき里を心隔てつ」(卷十八)と返してゐる。 原作に比して劣ること甚しい。 原作には調べがある。 家持作には意味があるのみである。 猶、この歌第二句には「同じ國なり」の訓みもある。 これは考へて見る餘地ありと思ふ。 第五句「妹は」は「妹が」説もある。 聲調よりすればこの方いいかも知れぬ。 小生まだ考へが決まつてゐない。 諸説を擧げたのは、その説皆聲調に關係あるからである。 六首中初め二首の「おほほしく」は、もと「凡《おほ》しく」であつて、大凡にして朧ろに明かならざる意より轉じて、悒鬱等の意にも用ひられてゐる。 二首の場合は「凡しく」の意であつて、それに皆序詞がついてゐる。 第三首「天雲の依り合ひ」は「天地の依り合ひ」等より出し句ならん。 遠い心持の形容である。 第四首「心やり」は慰むる意。 人を離れて土を思ひ、土を離れて雲に思ひをよせ、或は慰めるといふこと、古來よりの人情と思ぼしく、萬葉中多くそれが現れてゐる。 終りの歌、第一句より三句まで「時々依り來」(來よを單に來といふこと古例なり)と言はんがための序であつて、第二句は必ず「ふりしき」と訓むべきであると思ふ。 「ふりしく」「ふりしけは」皆非である。 歌柄から察するといい。 赤人の有名な富士山長歌の反歌である。 田子の浦から(ゆはよりの意)汀づたひに出て見れば、富士の高嶺に眞白く雪が降ってゐるといふのであつて、何等の奇なき所が、この歌の大柄にして富士の大きな姿を現し得てゐる所以である。 之について、賀茂眞淵は「大方の人一節《ひとふし》を思ひ得て本末を續くるぞ常なるを、古へ人は直《ただ》に言ひ連ねしぞ多き。 そが中に赤人は殊に節あるは未だしく心低き事と思ひけん。 斯くうち見るさまを其のままに言ひつづけたるなり。 」と評してゐるのは甚だ意を得てゐる。 平凡の如く見える所が、天地自然の心に合してゐる所であつて、この平凡は、平俗を意味する世上の平凡とは違ふ。 誦すれば誦するほど、長河の海に朝する如き勢と力とを感ずる。 「田子の浦ゆうち出でて見れば」と強く係つてゐる勢を受くるに「眞白にぞ」と起して、そのぞが第五句「降りける」に入つて初めて止どまつてゐる勢を思ふべきである。 この句法、前の人麿の歌に三首を例擧してある。 それを參照せられんことを望む。 「うち出でて」を眞淵は「うち出《で》て」と訓んでゐる。 それでは歌の勢を成し得ない。 小生は僧契沖の訓み方に從つたのである。 「眞白にぞ」を鹿持雅澄(萬葉集古義の著者)は「眞白くぞ」でなければならぬと主張してゐるが、小生は從はぬ。 調子が鈍ぶるか緊《し》まるかの問題である。 赤人の歌は、實は、人麿の雄偉な姿に比して、虔ましくして内に潜む方の側である。 その點に於て、この歌は、赤人の歌としてやや異色あるものと言うてよい。 富士山長歌の方も、その點同じである。 神龜二年聖武天皇の吉野行幸に從駕した時の長歌の反歌である。 「象山《きさやま》のま」は「象山の際」であり、「こぬれ」は梢であり、「ここだ」は許多である。 一首の意よく通じてゐる。 境は吉野の山中で、耳に聞えるものは木末々々の鳥の聲である。 一首の意至簡にして、澄み入る所が自《おのづか》ら天地の寂寥相に合してゐる。 騷ぐというて却つて寂しく、鳥の聲が多いというて愈々寂しいのは、歌の姿がその寂しさに調子を合せ得るまでに至純である爲めである。 試みに、第一句より第五句までを誦して見れば、それが如何に至簡な力の進行であるかが分る。 直線であるから寂しく、寂しいけれども勢があり、勢があるけれども、それが人麿の如き豪宕な勢でなくて、虔ましく潜ましき勢である。 これは、人麿・赤人の特徴を較ぶるに根柢的な龜照をなすものである。 特に、この歌第三句まで、天仁遠波「の」を疊用して一首の勢を呼び起してゐる所が、曩の人麿の歌「足曳の山川の瀬の鳴るなべに弓月が岳に雲たちわたる」に類してゐる。 兩者の比較は甚だ興味がある。 今それを小著「歌道小見」より引用する。 (上略)この歌、山河自然の風物に對してゐる境地が、前の人麿の「足曳の山川の瀬の」の歌によく肖てゐるのみならず、「み吉野の象《きさ》山のまの」と天仁遠波「の」を疊用して初句を起してゐる手法までも、よく肖てゐるのでありますが、第三句以下に至つて、全く前者と異る感動を現すに至つて居ります。 これは前の人麿の歌の、第四句に至つて突然山の名を提示し來つた勢に比して「み吉野のきさ山のまの木ぬれには」と呼び起した句法が、直ちに第四句以下と相聯つて、一首を直線的に押し進めてゐるからでありまして「ここだも騷ぐ鳥の聲かも」の四三音三四音の諧調が、人麿の「弓月が嶽に雲立ちわたる」の七音二五音の語調と、自ら別趣の勢をなして居ります。 人麿のあの歌は、人麿の雄渾な性格に徹して、おのづから人生の寂寥所に人つて居ります。 赤人のこの歌は、赤人の沈潜した靜肅な性格に徹して、同じく人生の寂寥所に入つて居ります。 入つて居る所は同じであつても、感動の相は、個性の異るがままに異つてゐるのでありまして、それが自然に歌の調子に現れるのであります。 人麿の歌は、數歩を過まれば騷がしくなりませう。 赤人の歌は、數歩を過まれば平板になりませう。 これは皆兩者の歌の調子から來てゐる相違でありまして、調子の相違は、兩者性格の相違から來てゐること勿論であります。 猶この赤人の歌で、上句を受ける第四五句に強く重々しい響きを持つた音の多いといふことが、讀者の感動を異常な所へ誘つて行く力になつてゐることを注意すべきであらうと思ひます。 前の反歌につづいた反歌第二首であつて、靜肅な感動と、その感動の現れが前の歌に通じてゐる所がある。 矢張り赤人の傑作であらう。 久木は今の世何と呼ぶ木か明瞭に分らぬ。 「木ささげ」説もあり「くぬぎ」説もある。 「しば鳴く」は「しば/\鳴く」ことである。 前の歌と同じく、一讀して一首の意明瞭である。 第一句より三句まで押して行く勢が既に異常であつて、一種澄み入つた世界へ誘ひ入れられる心地がする。 それを第三句より第五句まで連續した句法で受けて、最後に「千鳥しば鳴く」といふ引き緊つた音で結んでゐる。 暢達の姿があつて輕い滑りにならない。 一首各音の持つ響きが虔ましく緊まつてゐることが、更に一首の感じに大きな影響を與へてゐる。 その邊を翫味せんことを望む。 猶この歌、夜半の景情を歌ひながら「久木生ふる清き川原」と明瞭に直觀的に歌つてゐるのは、月光明かな夜ででもあつたのか。 そこに少しの疑がある。 猶、第二句は「夜の更けゆけば」と訓む人が多い。 暫く古義に從ふ。 聖武天皇神龜三年秋九月播磨國稻見野へ行幸の時、赤人從駕して作つた歌であつて、長歌の反歌三首中の一首である。 從駕の人々皆假廬を造り、淺茅原(茅《ち》の原である。 茅《ち》はツバナの穗に出る小さい禾本科植物である)を蓐として、離々たる雜草を押し靡けて寢る。 斯る夜が幾夜もつづけば、故郷の家が益々偲ばれるといふのであつて、旅の情思が、「淺茅押し竝べ」といふ寫生句を中心として生々流動する觀がある。 全體の姿が自然であり、安らかであり、それが「氣《け》永くしあれば」といふ八音字餘り句によつて音調の一跳躍をなして、餘勢が他の句へ及んでゐる。 平坦にして凡ならざる所である。 「け永く」の「け」は「來經《きへ》」の約であつて、「け永く」は經過の長い意であること前に言うた。 この歌優に赤人の傑作とするに足りる。 猶、卷七に「家《いへ》にして我《あれ》は戀《こ》ひむな印南野《いなみぬ》の淺茅《あさち》がうへに照《て》りし月夜《つきよ》を」の傑作があつて、赤人のこの歌の心によく響きが合つてゐる。 春日山に登りて詠める長歌の反歌である。 高按[#木偏]は地名であり、三笠はそこにある山名である。 この歌第一二句までは例の序詞であつて、歌の本意は第四五句にある。 萬葉集に序歌多けれども、この歌の如く上下微妙な即き方をしてゐる序歌は少いであらう。 讀めば讀むほど津々たる滋味が湧き出るといふ心地がする。 山に鳴く鳥は四十雀・小雀・山雀・鶸・目白の類であらう。 木がくれに鳴く小鳥の音は、止むかと思へば繼ぎ、繼ぐかと思へば止む。 この邊の寫生實に微細所を捉へてゐるのであつて、それを序として「止めばつがるる戀もするかも」が心ゆくまで生き得てゐる。 斯樣な歌になれば、全く赤人の獨自壇であつて、人麿その他の作者の何人も及び得ない所である。 「戀も」の「も」は感動詞であつて、斯樣な場合の情趣を生かすに微妙な力を持つて居り、「止めば繼ぐ」とやうに言はずして「繼がるる」と所動的に言うてゐる心も甚だ可憐であつて、この邊すべて赤人の特徴が遺憾なく現れてゐる。 これを赤人の傑作とするに躊躇しない。 葛飾の眞間の手兒名は、今も手兒名神社ありて人の參詣するほど、人口に膾炙せるゆゑ、その説明は略す。 手兒名は、もと、美人の稱なりしならんも、葛飾のこの地にては一少女專有の名の如くなれり。 赤人時代にも有名な傳説であつたであらう。 その手兒名の墓を見た作者の感激が、斯樣な率直な歌になつて現れたところ甚だ面白い。 子どもがよき翫具などを得た時、自分にも小躍りして喜ぶと共に、これを人に示さずには居られぬものである。 赤人の感激が之に類して「吾れも見つ」と言ひ「人にも告げむ」と言つてゐる。 そこが甚だ自然であり、率直であつて、以下單に「葛飾の眞間の手兒名がおくつきどころ」と名詞を並べて押し通してゐる所益々面白い。 赤人にして斯樣なぶつきらぼうの歌を作してゐるのは、餘程感激が至つたものと思はれる。 佳作とするに足りる。 長歌の反歌である。 それならば、萬葉集の歌は、この二人によつて凡べてその精粹が代表されてゐるかと言ふと、さう言へないのである。 人麿・赤人の歌に各特色ある如く、萬葉集多數の歌には、皆夫れぞれの特色があつて、その特色は、皆、作者個性の眞に徹して現れてゐる點に於いて、根強い必至性をもつてゐるのであつて、他の歌を以て換へるに足りるといふ如き輕いものでないのである。 例へば、それが、一防人の歌であつても、防人として必至已むを得ざるより發せられたる聲であるから、その代りを人麿作で間に合せるといふことは出來ぬのであつて、それらの作者の中に、優に人麿・赤人らと伍するに足りる歌を作してゐるものも少くないのである。 それゆゑ、萬葉を知らんとするには、矢張り萬葉全體を知らねばならぬのである。 今、中期より心付いたものを順次擧例して、頂上期の歌品一斑を見ようとする。 持統天皇の御歌である。 姿が暢びやかで、自然で、自ら天地日月の運行に合すほどの大らかさがある。 「夏來るらし」「衣乾したり」「天の香具山」と三ケ所で切つた句法が、自ら、春の麗かさより夏の清新に移りゆく落ち著きの心に合し兼ねて典雅靜淑なる女帝の風格を具してゐる。 「春過ぎて夏來るらし」は春行いて幾ばくならず、夏の來る猶早い感であつて、若葉と言はんには猶整はず、所々落花の殘るあるを思はしむるほどの情である。 この句至簡なるを以つて、輕々讀み過ぎざらんことを望む。 此の頃の衣は多く白であつて、花や樹皮や埴土で染めたるは上等である。 白妙の衣乾したるは、時移つて新衣をつけんとする民家の用意であらう。 これを、わが師伊藤左千夫は註釋して「折節女帝端近に御出ましの時に、藤原の宮よりは東にあたる眞向うの香具山に、麓からいくらか上つた程の里などに白衣干されたるを見給ふところ、言ふまでもなく此山は此下の御井の歌などに青香來山と歌うてある位であれば、初夏の青葉の美しさも聯想せられる。 青葉の間々に家里も見え、衣をほしてある家も見えるといふ光景。 こなたは宮城の一端女帝の立ち給ふ所、二三の臣の少女もつき從ふさま、何と優美の好畫幅であらう。 瞑目して歌境を想像すると共に、神仙境に遊ぶの思ひがするのである。 (中略)此歌の如く作者其の人をまで讀者の想中に畫きうるものは稀であらう。 」と言うてゐる。 好畫幅と言うて足らず。 進んで神仙境に遊ぶと言うた所、矢張り面白い。 天智天皇の皇子|志貴皇子《しきのみこ》の歌であつて、持統天皇の八年、明日香の都から藤原の都へ遷都した後、志貴皇子が明日香にあつて、舊都の荒廢に赴くさまを嘆いて作られた歌である。 「たわやめ」は「をとめ」の訓もあるが、小生はこの歌の場合「たわやめ」と訓まねば情を成し得ないと思つてゐる。 撓撓《たわたわ》として打ち靡く少女の姿である。 持統天皇は女帝にあらせられるゆゑ、宮中に奉仕する女官も多く、特に諸國よりは容姿美しき少女を選んで采女《うねめ》として朝廷に仕へしめた。 それらの手弱女《たわやめ》たちの往き來の袖を吹き返した明日香の里の風が、時遷り世改まつて、忽ちに落莫の音をなすに至つた。 その感慨を敍して「都を遠み徒らに吹く」と言うてゐる。 この邊實にいい。 「遠み」の「み」が内唇を引き緊める愼ましい音であつて、それにつづく「いたづらに」が簡淨にして感慨多き詞である。 この邊、意と調べと、相待つて深い感慨を現してゐるのである。 猶上句「袖吹きかへしし」とやうに言はずして「袖吹きかへす」と現在動詞にしたのも、少女らの姿を如實に思ひ浮べてゐる作者の胸中を想ふことが出來て大へん結構であり、第一二句「明日香風」と名詞でしっかりと止めたのも、第四句との間に沈默があつて自然と情を成し得てゐる。 同じく志貴親王作で、懽《よろこ》びの歌と題してある。 「いはばしる」は垂水の枕詞であり、垂水は水の湧き出て落ち垂るるを言ふ。 「垂水の上」の「上」は必しも上下の上でなく、「垂水のほとり」ほどの意であつて、その用例萬葉集中に多い。 水の湧き垂るるほとりに早蕨の萌え出づるほどの春になつた。 といふのであつて、坦々たる現れに自ら春の心が泌み出てゐて、如何にも快く心持の徹つた歌である。 垂水の上の早蕨は、一見何の奇なくして、實にいい所を見てゐるのであつて、恐らく、作者の空想でなく、實際そのほとりに立つて寫生したのであらう。 その寫生が斯の如く單純にいつてゐるのは、感應の心が純粹に動いたからであらう。 第一句より第五句まで連續して、層々勢を成しつつ一筋に徹つてゐる句法が、その純粹な感應と相通じてゐるといふ觀がある。 この歌優に萬葉集中の秀逸である。 持統天皇の吉野行幸の時の歌であるが、誰の作か分らぬ。 或は文武天皇御製とも傳へてゐるが、それが略ぼ當つてゐるのであらう。 歌柄が大らかで氣品の高い所に帝王の面目が髣髴してゐる。 或る人は持統天皇御作ならんとも言へど、この行幸は文武天皇の御宇の事で、持統天皇御獨身の折であるゆゑ如何はしく、その點を眞淵も言うてゐる。 天武天皇御在世時代ならば「わが獨り寢む」でいい。 どうも、この歌は持統天皇の大らかな暢び/\した御歌柄に通じてゐるので、持統天皇御作とすれば小生の理解に都合がいい。 「はた」を眞淵は略ぼ「果して」の言に説いて居り、其他諸説あれど、契沖の「まさに」と解してゐるのがよく當つて居り、それから派生して多少異つた意にも用ひられてゐるやうである。 此歌全體に意と調と暢達して居り、中へ「はたや」といふ詞が入つて一首の調べに波動を生ぜしめてゐるあたり、味はうて盡きざる情がある。 天武天皇の皇子大津皇子が持統天皇御代に謀叛せられた。 それ前に、竊かに伊勢神宮に下りて、そこの齋宮なる御姉|大伯皇女《おほくのひめみこ》に逢はれた。 その時、大伯皇女が京に歸られる御弟皇子を送つて詠まれた歌である。 「あが背子」は大津皇子を指す。 背子とは多く女から男を親しみ呼ぶ時の稱呼であつて、稀に男同志で相呼ぶにも用ひられる。 大津皇子は大和へ歸られるのであるが、これを送る大伯皇女から見れば「大和へやる」のであつて、この邊、情がよく至つてゐる。 大津皇子の別れを告げたのは夜半であつたらしい。 夜ふけて弟皇子を送られてゐるうちに、地上には已に露が滿ちて皇女の裳裾や衣を霑らした。 「あかとき露にあが立ちぬれし」がそれである。 第五句「あが」と言うたのは「私しや」と力を入れたのであつて、心の底に籠る力が斯樣な句となつて現れたのである。 特にこの第五句は「あが、立ち霑れし」の二五音である。 強い据わりがあつて、猶全體に女らしい情の流露を妨げない。 三方沙彌《みかたのさみ》が園臣生羽女《そののおみのいくはのめ》に娶《あ》ひて幾何もなく病臥した時、生羽女を思うて詠んだ歌である。 「總束《た》げ」は綰《たが》ぬる意で、頭の上へ頭髮を束ねて結びあぐるのである。 「ぬれ」はぬる/\と滑り落つる状である。 「かかげ」は「掻きあげ」の約である。 あの時逢うた生羽女は、未だ年若くして、その黒髮を綰ね上ぐればぬる/\と落ち、さればとて、綰ねあげずにしては長過ぎる程の髮であつた。 といふのであつて、愛着の心が斯の如き如實の寫生となつて生動してゐるのである。 この妹の髮も此頃見ざる久しい。 もう今は頭上に掻き上げて美しく結うたであらうか。 といふのであつて、病床にあつて、猶相見まほしくする心が自ら内に溢れてゐる。 萬葉の歌は主觀句の併列などで大騷ぎするものでないことは前にも度々言及した。 戀しい心が女の髮を捉へてそれに心を托してゐる。 この場合の髮の寫生は、形の近似でなくて深い心持の象徴である。 情の露《あら》はならざるが、歌に虔ましさのある所以である。

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